自由な言論とウェブの自由

自由とは何か、という感じの話ですが。このあたりのことを言い出すと結構きりが無くて、マイ定義乱舞の様相を呈することがままありますが、とりあえず
何事においても、何のために、という視点は常に大事で、自由と言うものについてもそれは例外ではありません。そのことを、以下を読んで思ったわけですが、これを当たり前のように了解している人もいれば、そんなものは自由とは言わないという人もいるでしょう。このへんは、公共とか社会とかいう言葉で何かしらの線が引かれているかどうかによるのかもしれません。

少数意見であるというだけで潰されることは問題であるが、妥当性を欠く意見が、支持者を得られないがゆえに淘汰されてしまうことは、自由な言論の場においてはなんら問題とされることではない。

WWWにおける言論行為 - 妄想日記

あらためて提示されると、実にすっきりとした話であることがわかります。淘汰されるということが少数派であることによる弾圧ではない、と言うことは重要。

さらに合衆国の憲法学者エスマンは「真理を獲得する手段」「社会における安定と変化との間の均衡の維持」を表現の自由の機能としてあげており、

WWWにおける言論行為 - 妄想日記

変化だけではなく、安定の側も表現の自由が維持するべきものの天秤にのせられている、ということが大事なのかな。

自由な言論の場において、表現の自由に資するためには、自己の意思及びその正当性を受け手に伝えることが必須である。受け手のことを考えない手前勝手な言論は、それだけで批判を受けざるを得ない。すなわち言論行為とは、常に受け手の便宜を心がけて行われるべきものである。

WWWにおける言論行為 - 妄想日記

と言うところまで来て、ふと思うのです。果たしてウェブの表現の自由とは。テキストすなわち言論であると言うところに立脚すれば、ウェブで何かを書く場合、すべからく言論行為として受けての便宜を心がけるべし、となるのでしょうが、説明可能な言論のみがウェブに発表されるべきである、と言うことはないと僕は考えます。それだけだと、例えば「これは感想だから批判しないでよ。リンクしないでよ」と言う話も正当性を持ちそうです。しかし、これは受け手側には通用しない話で、言論として解釈されてしまった時点で、言論になってしまう。そういうものなんじゃないかと。
とはいえ、発信側にはその解釈をそのまま受け止める義務は無いのではないか、とも思います。つまり、自分の書いたものが取りざたされることについて文句を言うことはできないけれども、矛盾を突かれて言い訳するとか、真意を説明するとか、そういうことは別に放棄しても構わないはず。それで何が起きるかは別として。見解を提示しないのもある種の表現の自由に立脚していると思います。
ここで問題になるのは、解釈した側が、自分の言論として言及を成立させるために、論拠を求めはじめて、元々の記事なんかを分析しだしたり、その見方からの本人の見解を求めたりすることは果たしてどこまでが許容範囲なのか。ウェブに出した時点で他者にどう扱われても仕方が無い、という原則は原則としてありますが、例えば、「そういう意図はありません」との回答に対して「今までの言動がこうでこうだからこうに決まっている。嘘をつくな」と言われてももともと「自己の意思及びその正当性を受け手に伝える」ことを目的としていない発言について取りざたしているのだから、そういった類の批判は批判として成立するか、と言うとかなり微妙な線だと思っています。こういった線引きにおいて、片方が一方的に設定することにより、表現の自由に立脚した言論なのか、ただの他愛の無い言葉の羅列なのかが決まってくるのではお話にならなくて、両者了解のものでないと少なくとも議論にはならないのでしょう。
ちゃんと了解することは、お互いがこれは自由な「言論」である、と言うことに立脚していないと難しいわけで。そうでない局面に直面したときに確認作業をしないということは、相手を勝手に自分の土俵に引きずり上げている、ということなんじゃないかな。そのこと自体がおかしい、というわけではなくて、それはそれで当たり前のことなんだけど、相手の了解が取れなかったことや自分の解釈に否定的な見解をされたこと自体についておかしいと言ってしまうのは、土俵に上げた側の態度としては正当性のあることとはあまり思えないのですよね。
なんだか曖昧な結論になってしまいましたが、このあたりのボーダー問題と言うのは結構重要になってくると思います。批判空間と言うのはウェブの中で住み分ける場所を作った方がよいのではないかと言う思いはずっとあります。住み分けるって言ってもその外を批判することをやめようという話ではなく、無理やり土俵に上げなくてもいいような何か仕掛けがないかな、ということですね。