ウェブは公共空間(断言)

ホームページを家に例えるのはニュアンス的には誤訳による解釈で、(家キーとか家位置と言わないのと同様)ページ構造のベースを指すに過ぎない。このことは無断リンク話でもよく挙げられる、公開したら「公開」なんだという単純な事実だけれど、一方で、HP=自分のもの感、コントロールできる感を持っている人もかなりいて、その人達が崩壊せしめる「建前」と「実際」の壁は認識の軽さとは裏腹に、重い。
著作権表現の自由でも語られるけれど、例えばブログの記事が私的なものであるのは、あくまでそのコンテンツ自身であって公開する仕掛けではない。私的なものにするためには理念と仕掛けがセットで必要で、たとえアクセス制限(仕掛け的なもの)がされていようと、許可された人が機密保持契約(理念的なもの)でもしてない限りものの役にも立たない。ウェブという公共空間に建てられた私的空間はそういった、理念と仕掛けをセットにしたものであり、コンテンツそのものの私的性とは一切関わりがない。これは「空間」のことを論じているからであり、そこから離れた場合、別の切り口から私的性を導出することは可能だ。ここではそれについては述べない。
ならば、この公共空間は言論の自由を、あるいは表現の自由を弾圧するか。
各自由の、そもそもの定義は置こう。ウェブが検閲されないメディアとして登場したのは、発信者の主体がコンテンツ作成の当事者であるからに過ぎない。俄かに自由が誕生したわけではなく、現実として、恣意的な価値判断や自主規制から解き放たれただけで、相変わらず社会にぶら下がっている*1
すなわち、ウェブにおける特別な自由は公式には存在しない。しないけれど、別の現実として、黙認はある。全部を相手にはしきれない。あるいは個々の基準による正義に照らして許容範囲かどうかの問題として。それを保護される自由と叫ぶのは法律の厳格な適用を叫ぶのと大して変わらない。
保護されたメールやチャットだけを証拠に逮捕されるようなことがあれば、問題(通信の秘密の侵害の問題もあろうし)だけれども、交差点で偽の血糊がついた模造刀をもってブツブツ言っている人をなんとかしようとするのは公私の問題でもあるまい。
コンテンツの内容に対しての自由は、ウェブだからということについて特段の違いがあるわけではない。日記に呪詛の言葉を書いて逮捕されることはない(事件を起こした後動機を示す証拠として採用されるかもしれないが)。ウェブで変わったのは、社会、すなわち公共空間に公開すべきかどうかを、作成者や、編集者個人の判断により決定することができるということであり、少なくとも現時点ではそのことは「事前の」社会的検閲がなされないだけである。
現実のコミュニティーに対してむしろ建前について厳格なのがウェブコミュニティーである。

*1:この点については、特に国家から解き放たれたという点で異論があるかもしれないが、社会から−例えば日本語のコミュニティーはほぼ日本の社会のサブセットである−は解き放たれていないことに注目したい