「ウェブの自由」の範囲について

先のエントリ、ウェブは公共空間(断言) - novtan別館は例によって携帯から書いたため、上手くかけていないところがありますね…。で、今回はその続き的なエントリ。
いわゆる自由ってのは留保の無い行動の肯定ではなくて、コメントでも指摘していただいたけれど、ウェブって現実よりも本質的に遥かに公共性が強い空間なんですよね。前、こう書きました。

Webでは機能的に住み分けることは現状不可能。なんたって参照言及引用を楽にするためのシステムですから。

Webでの住み分けは可能か - novtan別館

こうも書いた。

果たしてウェブの表現の自由とは。テキストすなわち言論であると言うところに立脚すれば、ウェブで何かを書く場合、すべからく言論行為として受けての便宜を心がけるべし、となるのでしょうが、説明可能な言論のみがウェブに発表されるべきである、と言うことはないと僕は考えます。それだけだと、例えば「これは感想だから批判しないでよ。リンクしないでよ」と言う話も正当性を持ちそうです。しかし、これは受け手側には通用しない話で、言論として解釈されてしまった時点で、言論になってしまう。そういうものなんじゃないかと。

自由な言論とウェブの自由 - novtan別館

その一方で、こういうタイトルのエントリも書いている⇒自由に批判し、批判されようぜ! - novtan別館
ぶれぶれですね。なんでこうなっちゃうかと言うと、やっぱり臨界点がはっきりしていない、と言うことがあると思うわけです。これは現実でも同様で、公的な機関なんかではある程度はっきりしているけど、近所の奥様同士の付き合いは時に恨み嫉みから殺意にまで発展することがあるように、許されたり許されなかったりは状況や関係に依存しているわけです。
ウェブが今までのものと比べて自由であるのは、「物理的な制約からの自由」という面がまず一つあります。実は、この点に関して全く意識しない層が問題の大半を引き起こしているのではないか、と思っているのです。つまり、伝達に掛かる時間、距離と言うものはインターネットの中ではほぼ0に等しく、瞬間的に伝播します。これはキー局の放送と同レベルと言ってしまってもよいくらい。ここで担保されるのは、全世界に発信する自由です。もちろん、某国のように検閲されてしまうようなものは除いて*1。つまり、超強力な公共の電波に発信されているのと同じわけです。そのことを全く意識しない人々は、容易に公共の場所で裸踊りをしだすわけです。無知、ではあります。そして、無知なら許されるべきもの、と言うのはその「場」の公共性にある程度依存しますから、超強力公共性の場において、大体は、許されない方向に倒れるわけです。
さて、そんなわけで、発信されたものが本当に発信すべきであったかについては、常に社会により後付けでの判断がされます。既存のメディアと言うのは、そういったものを予めある程度の基準でフィルタリングしたものであるし、そのフィルタリングについては、必ずしも公共の利益が基準な訳ではなく、いくらかの圧力をかけてくる勢力に恣意的に操作されうるものです。が、ウェブは、発信の主体が個人になっていることにより、この制約から実質的に解き放たれ、「不都合な真実」を白日の下に晒すことが可能になったわけです。ただし、その真偽について、担保されるものはない。ここでの自由は、「自由に発信すべきと判断できる」こと。
しかし、「内容についての自由」と言うのは、保障されているものではありません。誹謗中傷を初めとして、不適切な内容と言うものは、ある。それは「ウェブの自由」が担保するものではありません。ウェブは手段の一つに過ぎず、その手段を離れた内容の部分において、「ウェブだから」と言う特段の理由は存在しません。じゃあ全く無関係かというと、そういうわけでもなくて、匿名性の問題とか、そういったウェブの本質とはまた一つ違った部分での問題と結びついて、一つの大きな問題を為しているのが、この内容についての自由なわけです。そして、内容の自由は、いわゆる表現の自由として担保されるべきであり、無論、この自由においても限度を越えたら排除されるべきものであるわけです。これを持って表現の自由への弾圧と言うのは*2いささか強弁になってしまう感は拭い去れません。
というわけで、ウェブにこそ強固な建前合戦が必要…って、そんなの嫌ですね。ストレートな罵倒合戦なんかも存在しうるべきだし。ここの折り合いをどうつけるか、についてはもう少し考えて見たいと思います。
最後にいくつか、自由と自己責任につての以前のエントリを紹介(と言うか覚書)。

*1:そういうものが、本来排除されるべき自由の敵ですね

*2:誰かが言っているというわけではありませんが