「自分はそんなに酷いことを思っていないし、ニセ科学に毒されていない」というアピールVS「正しい批判ではない」という批判

羊水が腐るという表現が事実として誤りであって、また、比喩的表現にしてもあまりに他者に配慮していない、公共の電波で流すには問題がある発言であった、という事に対して何故過剰な反応が起こるのか。
高齢出産はリスクが大きい、ということについて、死ぬ死ぬ詐欺問題のときに、散々親に「リスクを考えないバカ親が自分の楽しみの為に云々」と批判されていた事実と、ここでの発言を非難するという事は完全に矛盾していると僕は感じてしまう。であれば、単純に「そんな言いかたってないよな」的な動機でのバッシングであるか。バッシングしている主体が違うのかも知れないけれども。当事者としてではなく、他人事のように言ったことが問題なのかも知れない。
本来であれば、あの発言に便乗して更なる高齢出産に対するバッシングが出てきても良いのだけれども、そうでなかった、ということは、初めからあんまり好きでなかった対象に対して、失言に便乗して叩いているだけなのかもしれない。でも、表現の酷さについての許容量を越えてしまったときにそれを叩くことで自分の見識なり、科学的知識が常識的であることを確認しているのではないか、そう思う。死ぬ死ぬ詐欺問題にしても、高齢出産そのものではなく、そのリスクを知りながら、その結果を他人に依存して助けてもらおう、という態度が非難されていたのであれば、矛盾は生じない。結局のところ、叩かれているのは失言したものが感じていること、考えたことそものもの批判ではなく、態度に対する非難だということだろう。それが、自らの規範意識をアピールすることに繋がっているのではないか。
一方で、批判そのものが正しくない、という意見がある。失言は謝れば良く、過剰なバッシングだ、スポンサーに電話するとかやりすぎ、等。ゴメンで済んだら楽でよいんだけど、バッシングの原因が規範意識(それが正しいかどうかはおいておく)である限り、そこに合致するような謝罪でないと意味を成さない。これは結構難しい話かもしれない。それぞれの意識は異なるから、まあ、大多数を占める意見に迎合しておけばよいのだけれども。
ただ、バッシングを批判する、という行為もある意味では、規範意識から出たバッシングの連鎖に過ぎないわけであることはある。「俺はいじめは良くないと思うよ」と捉えることは、原因を分析する意図はなく、ただ行為のみをして批判するという点ではまあ、あんまり元のバッシングと変わらないかもしれない。
発言そのものを擁護するでもなく、バッシングの行為を批判するのはどうもすっきりとしない。