書く事と、ポジティブな意思と

ネガティブコメントの受け止め方について書いた、前のエントリは、まあ、半ばネタというか、そこまで全てをポジティブに捉えるって事はなかなか難しいな、と思いつつ書いているわけです。
ここで上手く噛み砕いて貰った。ありがとうございます。
んで、もちろん、自分にとって有用な部分を上手くフィルタリングできるに越したことはないし、そうは言っても批判を全部フィルタリングしてはいかんと思うんだけど、そういう風に出来る人ってのはそんなにいないよね。やっぱり否定されたら悲しいし、そんなつもりで書いたわけじゃないのに、曲解されたり、自分の文章がちゃんとしていないことで突っ込まれたりして、そんなの本題に関係ないでしょ!って切れてみたりして。そういうのを全て飲み込んでポジティブに解釈できるなんてのはある種の才能かもしれません。打たれ強いというか。僕なんかはわりと打たれ強いんだけど、それはポジティブというか、ある部分における自分の隙の多さを認めているからかもしれませんね。もっとも、そのことを理由にちゃんとしていない文章を書く自分を肯定しているという悪い部分もあるけど。いいの。感覚が大事なの(これはスタンス)。
話がすごく逸れるけど、ブログのいいところ、というか、こういうメディアのいいところは、いくらでもやり直しが効く事だと思っています。よく、実名で失言しちゃったら取り返しが付かないとか言われるけど、確かに犯罪行為の告白とかはちょっとアレだけど、そうじゃない限り、過去を取り出して攻めて来る人に現在の自分の言説で対抗することが出来る。実際には結構難しい。でも、過去の自分(これを書いた瞬間、書いた自分は過去の自分だよ、くらいの過去)を常に衆目に晒し、批判の対象にされ、自らどうあるべきかを考えることが出来るってのは強い。過去を取りざたされても、士別れて三日なれば,刮目して相待すべしですよ。そんなに過去にこだわる相手は捨て置けばよい。
と思いつつも、そんなことをできない人はいっぱいいるし、全員がポジティブシンキング全開でブログを書くわけじゃない、と思ったら、敗者になる権利が必要だと思うのですよね。それが人生の敗北を意味すると、ブログというのは限りなくハードルの高いメディアになってしまう。だから、匿名で書くことが出来るってのは必要だし、それが人生の安全弁として多少なりとも機能するのであれば、嫌なら書かなければいいじゃん、というのは書ける人の傲慢である、とも思ってしまいます。
結局お前ネガティブとポジティブのどっちなんだよ、って感じですね。僕は、耐えられないなら逃げるという選択肢は常に必要だと思います。が、もし、逃げる気がないのであれば、先に書いたような気持ちでネガティブな反応と相対すべきなのかな、と考えています。昔は自分の考えを変えるのが嫌だったんだけど、それは、自分を裏切ったような気がしていたからかも。でも、今は、いろんな人の考えで、自分が変わっていくこと、それが自分にとってプラスであることを実感し、独りよがりな自分でなくなったことをいろんな人に感謝しています。かといって自分の根源は変わっていないと思う。その辺のバランスが取れているから、あまり他人のネガティブな反応が怖くないのかもしれない。ある意味それも傲慢な態度なのかも知れませんが、ことに及んで毅然とする、それは誤りの指摘を受け入れることにおいてもそうありたいと思っています。

あと、一応補足。タイトルが福本風だったのは、「そんな事言ったって平穏に生きてる人間に要求してもなー。クズとか言われてもなー」というような、押し付けがましさを醸しだしたかった、つまり、そこまでポジティブにとらねーよ普通、という感じに思われるかなというのをちょっとネタテイストで弱めたつもりだったんですが、意外と肯定意見が多くてちょっとまだブログは死んでないと思ってしまいました。