表現の不自由・内心の不自由

準児童ポルノの問題ってのはそんなに簡単な話じゃなくて、何がそれに当たるべきか、どういう影響がでるのか、そもそも考えるのは悪なのか、ということを色々考えていたのだけど、全然わからない。それでもいくつかの糸口は掴んだ気がするので、まとまりなく書いてみよう。

ポルノかどうかはどう決まるのか

「児童の裸やそれに順ずる格好」が自動的にNGであれば、ドラえもんエスパー魔美等の藤子不二雄(F)のマンガのかなりの部分が発禁になることでしょうけれども、それが児童への性的虐待を減らすとは思えないよね。もっと言うと手塚治虫のマンガは単なる裸ではなくて、もっと踏み込んだ表現が出てくるのでアウトでしょう。あと、もし、諸先生方が、実は少女陵辱願望を持っていて、その発散結果として書いていたらどうなるのか。そういう内心は犯されるべきなのかどうか。
あるいは直接的な性行為の描写がそれをメインにして書かれていなければいいのかも知れません。という話は詭弁的回避策を有効にしてしまうから採用しないよね多分。つまり、これは恣意的運用を残す*1、ということに繋がりますよね。

ロリペド陵辱マンガに存在意義はあるか

一部の性的嗜好を満足させるという点では意義があると思う。個人的には必要だとは思わないけれども。ただ、ゾーニングは必要だと思うけれども。コンビニで売られていたらさすがにアレかと思う。
で、これが多分準児童ポルノの本丸ですよね。ゲームとかも含めて。そういう性的嗜好の是非は次の項で議論するとして、実際に表現されることの是非。あえて陵辱としたのは極端なところにまず一つ基準を置けるかどうか、という点について考えるためです。
アプローチとしては、規制するということにおいて、社会(現時点では社会とまでは言えないけれども)が要請しているものは何か、ということを考えていくべきかな。僕はそこに「自制」を見るわけです。つまり、欲望の存在を自侭に垂れ流すことは文明人のやることではないんじゃない?という話(これについては某ユニセフっぽい団体の主張がそうだ、という話ではなく一般論としてね)。
性的な表現については僕が生きてきた30余年においても相当基準が緩くなっているとは思う(一方で児童ポルノはきつくなっているけれど)し、当たり前になりすぎて少年漫画まで侵食している(ように思えなくもないけど、一方で昔のジャンプとかは間接的表現(ex.シティーハンター)見たいなものにはもうちょっとおおらかだった気もする)。この辺はいい加減どこかで歯止めを書けないといけないと思う向きはあってしかるべきだし、AVのモザイクの件にせよ、「お前らいい加減にしる!」という表明であって、規制強化でもないよなあ、というように思うわけ。
だから、某ユニセフっぽい団体が言うまでもなく、いきすぎなところはあるだろうし、逆にいきすぎでなければいいんじゃないとも思うわけですよね。
理性があれば現実と架空の区別がつかなくなることなんてないよなあと思いつつも、理性があればこういう形での発散は要らんよなあと思うと、人間のどの部分がそれを欲していて、どう発散され、あるいはされないのか、ということが問題になるわけですが、それについては現時点では答えがでる問題ではありませんね。
需要があるから存在があるのか、あるいは存在があるから欲求が喚起されるのか。人間の消費行動と広告の関係をみると、欲望は存在を認識するところから始まるのではないかという疑いをもちます。であるならば、社会的にNGな行為そのものを喚起するようなものは存在自体が危険物ではあります。ただ、何故NGか、というのは時代によっても変わりうるわけで、この原則を全面的に適用するのであれば、古い、(今の価値観から見たら)野蛮な行為の描写はすべからく目に触れないようにすべきです。ここは大きなポイントだと思う。大げさに言うと、昔、騎馬民族が中華化したときに、過去の野蛮な行為を歴史として残そうとした史官を抹殺し、過去を無かった事にした、というのは真に文明的な行為だったのか、という話です。理性が進化していないということを信じるのであれば、社会の害悪として抹殺すべきでしょう。
僕としては、ここにおける結論は「準児童ポルノ的扱いをするのであっても、販売を規制すれば十分」である、としたい。というか、あまりに普通に売られてしまう、というのだと抑止力にならないんじゃないかなってだけで、別に全面的に禁止にしろとか、所持まで罰せよなんて寝言だと思うのですよね。この辺を突き詰めていくと差別の問題になりかねないのだけど、そこにはとりあえず触れないでおきます。

願望を持つのはいけないのか

夢に出てきたら逮捕、なんて未来をちょっと垣間見ました。人の思考なんて混沌としていて何かのきっかけでどこがどう繋がるかなんてわからなくて、理性というのは単にそれを表現するときのフィルタリング機能にしか過ぎないと思うのです。だから、表現(これは行動という意味)さえ行わなければ、内心の自由は保障されなければならない。これは原則です。統御できないものを統御しろと。睡眠禁止、排泄禁止、の類の制限に感じます。
とはいえ、家庭にそういった感情を持つ隣人がいることそのものは心配かも知れません。ちょうど昨日読んだ小説から引きます。

「けれど、たとえば、面白いからやりました。では、納得ができません」
「そう……、つまり、面白いからやっていたのに、犯人が本当のことを自供しても、それでは納得してもらえない。変な話だね。どこに問題があるの?」
「問題?」
「納得できるものと、納得できないものの違いは何?」
「えっと……」西之園は考えた。「あ、そうか。つまり、面白いから、という理由では、防衛のしようがない、ということですね。」
「そうだ。それが、いわゆる納得できるということだ。

ηなのに夢のよう (講談社ノベルス)

ηなのに夢のよう (講談社ノベルス)

逆に言うと、ある種の性的嗜好をもっていることはそれだけで、防衛のしようがある合理的な理由になりかねません。
内心と、行為ではここでも一線が引かれていて、思うこと<その嗜好における別の手段で発散すること<実際にその行為を行うことのそれぞれの間には厳然たる壁があります。もっというと、二次元に対する嗜好と三次元に対する嗜好はそれ自身が既にして別種のものである可能性があることは多くの人が指摘しています。
ただ、思うことが具体的な形を伴い始めることは、次のステップに向かう一歩ではない、と言えるかどうか。人はどこで理性を超えてしまうのか。あるいは、それが人間としてのありようと、社会の一員としてのありようとのギャップの表れではないのか。そういったことを考えたとき、何が正しいのか僕にはわからなくなります。そして、そのことそのものが、文学的なテーマになっているわけですから、この「人間と社会」のギャップをどう扱うかということが、人間の理性とは何か、という答えの出なさそうな問いかけなのではないでしょうか。
だから、光源氏に感情移入して源氏物語を読むのは現代人としておかしいか、ということは本来問題にはなりえません。このあたりを突き詰めていくと、最終的に行き着くのは結局「文脈」の問題になっていくので、明確に基準化するのは難しいですね。
内心の自由の拘束の行き着く先は人間の社会におけるパーツ化であり、それが種の存続に必要なのであれば受け入れざるを得ないことかも知れません(それこそヴァルカン人的に)。実際には、ここで述べているようなものとは別種の欲望により世界が壊れかかっているようにも思うのですが。

そこに「少女」はいるのか

そして「少女が性行為を強いられる」というコンテクスト自体がどのようなメッセージを伴って社会的に流通してしまっているのか、ということが問題で、絵であるか写真であるか演じられているかなどどうでもいいことだ。

その「少女」は本当にいないのか? - OAF

絵であるか写真であるかというようなことはどうでもいい事ではないと思うというのが僕の見解であるのは前述した通りであるし、その一方で、文脈の問題であるというのが大きな問題である(社会的に流通しているのはそんなによくないだろ)とは思っていますが、いる、いないの二つしか答えがないのであれば、いない、としか言えません。
「少年少女」という枠組みと「ポルノグラフィー」という枠組みとが絡み合うとき、「実際の少年少女」「架空の少年少女」であること自体は大きな差異を伴っていると思います。児童ポルノの違法化は、児童福祉法的なものとのセットで、実害を減らすことが目的ですよね。一方で、準ポルノ法的なものが目指すのは、ある種の思考の制限であり、嗜好の制限です。「社会」から「人間」に大きく踏み込んでいる。
制限すべきは、「文脈」であり、あるいは公然とした流布でしょう。それ以外のものを罪にしようとするのは、人間の生き方への干渉であるのではないかな。そして、その考え方のものでも、制限されるべきものは現時点でたくさんあると思いますし、その制限はある程度受け入れえるべきだと思うのです。
再三、制限という言葉を使っているのは、欲望そのものは犯罪であってはならないと思うからです。表現に規制があるのは欲望を無差別にばら撒かないための制限のためだと思っています。そのことが法学的・犯罪学的に正しいかどうかはわかりませんが。

欲望と行為の狭間

そのような手合を私たちの社会は許容しない。そうした「社会的な合意」が形成されることの意味と必要はある。「だから二次元を社会的な合意のもとに法規制せよ」という話にはむろんならない。そして。「そのような手合」を「そのような欲望」へと変換することに対して、警戒的であってありすぎることはない。

マスターベーションと社会が出会う場所と折り合う場所 - 地を這う難破船

最後の一言に今回の問題が凝縮されているように思えます。これ以上僕が言うこともないと思いますのでこれをもって〆させていただきたいと思います。

*1:この手の話題でいつも思うのですが、こういった恣意的運用が可能な法律は、逮捕に到る罪の認定にワンクッション置くべきなんじゃないかと思うんですよね。特に過去のものが含まれてしまったり、明確な意思(これは所持することが悪であれば悪意としての)を示さないでも入手してしまう、あるいは知らないうちに紛れてしまう可能性があるものについて。でも、ワンクッション置くと肝心の犯罪者を取り逃がすかも知れないからしょうがない?どこの統制社会だって感じですよねそれじゃあ。