人に言われてふるう勇気なんて大抵蛮勇だ

知恵によって生きることを選択した人類にとって、勇気とは何か。それは、リスクを取りに行く決断ではないのか。リスクを評価することのない勇気とは単なる向こう見ずの表出であり、蛮勇だ。
では何故あなたは「勇気がない」と言われるのか。それは、あなたがリスクを高く見積もりすぎているか、相手がリスクを低く見積もりすぎているか、何も考えていないからだ。でも他人に自分のリスク要因なんてそうは見えないでしょ。
誰かの言葉で背中を押されるのは、既に分析済みのリスクをもって実行するか否かのボーダーライン上で悶えているときの話。ポジティブ要因が増えたってだけ。判断すべきは自分。そして何らかの決断に至る、そのときに必要なのが勇気。それを通過して初めて得られる成果だからこそ価値がある。自分が出来るからって他人に勇気という言葉だけで実行を迫るなんてのはできるものの傲慢だ。
古くから、漫画的文脈で、勇気を出せない(主に手術前の)少年少女に主人公が約束する儀式がある。何故儀式が必要なのか。言葉は空虚であるが、しかし儀式を経て予言を成就したことで宿った言霊を信じることが一つの決断のための材料になるからだ。非科学的ではある。が、運も実力であると考える心は大事ではある。もちろん、漫画的文脈では大抵うまく行く。あるいは失敗に終わってもそこにかける努力が人間の可能性を信じさせるわけだ。
さて、あなたに「勇気を出せ」と諭した人は一体何を伝えたかったのか。その言葉に込められたものが、何であったのか。
信じてよい、と思うこともある。表面的ではなく、心から、成功を信じて。あるいは失敗のリスクをヘッジして。
単に自分や他の人との差異を勇気の問題に置き換えて単純化しているだけのこともある。リスクなんて知ったことか情けない的な。
決めるのはいつだって自分。大金持ちか、死かというロシアンルーレットにチャレンジしなかったことを責められる必要はない。自分の価値観を勇気という言葉で他人に押しつけてはならない。あるいは、その決断の一つの大きな要因になるのだ。その言葉の重さと向き合って。