ほら、痛くないよ!

目の前の苦しんでいる人を助けないで何が人間か!と思う一方で、それを目的としないのが組織的行動という奴であり、その究極が政治と行政だ、と言うことを理解している人は少ないですよね。なぜかというと、政治と行政が目の前の人間を救っちゃっているからです。酷い話になると制度を利用して自分自身を助けちゃってるもんね!
軍隊や特殊部隊がいろんなシチュエーションでの訓練をして、半ば自動的に判断を下せるようにする、医療現場でトリアージが必要になった場合に予め優先順位を決めておく、というのも、本来そういった大上段の(つまり非人間的な)判断をしなければしなければならない状況で、人情が入り込むのを避けるという意味合いが強いと思います。最近のHUNTER×HUNTERの展開でその辺の葛藤なんかもよく示されていますね。
人の上に立つ、というのはそういった意味で半ば人間を捨てる行為であって、それをしたがらない人が多いというのも事実です。人類がヴァルカン人になるのは果たして可能なのかどうか。

成果主義以降の日本社会で不足しているのは、セーフティネットなどよりも、その共感なんじゃないかと思います。
勝ち組負け組などといって短距離走的な尺度で人間を測り、凹んだ人間ではなく伸び盛りな人間への共感が溢れ、「やればできる」を拡大解釈した挙句に「できないのはやってないから」と見下して、今そのときのその人の状態しか見れていない人が哀しいくらいに増えてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20080318/1205850096

これももう最近の文脈の中で初めから語られていた話ではありますが、個々を助ける視点と全体を助ける視点、というのは半ば相反するもので、どちらも必要なものです。ただ、セーフティネット的なものは制度として語られるので社会問題に出来やすいけれども、共感というものは、個別に個々が対応していかなければならず、それを制度設計しようとしてもアンバランス(というか不公平)な形になってしまいがちなので難しいわけですよね。
だからこそ、blogのような個人メディアで、後者が重要視されているのだと思います。そして、前者については論理的/倫理的観点や実践の問題点とかそういった具体的な話になり、後者は抽象的かつ個別の話になって論点は拡散していきます。それでいいと思うのです。万民を治す特効薬なんてありませんから。
ついつい「ほら、これを注射すれば痛くないよ!」的処方箋を求めてしまいがちですし、"処方してしまいがち"なのですが、そのお薬って腕一本失って血が吹き出ている奴が死ぬまで戦えるお薬だったりしませんか?むしろ死んでも戦えみたいな。ここは戦場ですか?
これもある意味人生についての認識の差なのかもしれません。社会を戦うべきフィールドととらえている人とそうでない人と。「生きていさえすれば勝ち」と言って艱難辛苦に耐え、未来の勝利を目指している人と、「もう一生防空壕にこもって生活するのはイヤ」ととらえている人と。「お前も出てきて戦え!」という人と「お前らがただ勝利を味わうために始めた戦争に何で付き合わなきゃいかんのだ」と思う人と。
結局のところ、日本は平和なんでしょう。でも、もし世界が戦いを求めているならば、そこに赴く人が必要なのですし、どちらが正義と簡単に割り切ることは出来ません。
今頻繁にされるやりとりは、時代に押し上げられた地下のマグマが噴出している状態なんだと思います。噴火に向かうのか鎮火に向かうのか、これはまだわかりませんけれども、時代の一つの転換点がここにあると思います。21世紀の最初の十年がもうすぐ終わり、世界の盟主は倒れんとしています。多くの人が強くあらねば、平穏無事な社会は実現できないかも知れません。でも、そうであれば立ち上がる人はたくさんいると思うのですよね。最近の議論は一見マッチョとウィンプの議論に見えますが、実はそうではないというのはみんな気付いていると思います。政治的マッチョと、隣人愛的マッチョの議論であり、本当の危機が見えてきたら団結して戦う力です。
だからこそ、痛みを感じさせないことで人をマシーンに仕立て上げる麻薬を処方してもらうのではなくて、痛みで涙を流しながら、「ほら、痛くないよ!」といえるようになりたい。痛みがわかっているからこそ、強がれるんだよね。