社会悪と戦う正義の味方

b:id:ymScott氏からなんとなくご指名的idコールが来た(訳じゃないと思うがきっかけになった)ので軽い気持ちで書いてみる。
まず、内田樹氏と江川紹子氏が内容はともかく同じような展開の取り上げ方をしていたことに軽く驚く。まあ、話の内容は全然違う。なので内田氏の話には触れない。紹介だけしておく。

ドキュメンタリー映画靖国YASUKUNI』の上映が予定されていた映画館五館が、嫌がらせや営業妨害を懸念して、上映を取りやめた。
同じような事件は年初にもあった。
日教組の教研集会会場に予定されていたグランドプリンスホテル新高輪が同じ理由で使用を断ったのである。

誰か教えて - 内田樹の研究室

高輪プリンスホテルが、日教組の大会や宿泊の契約を一方的に反故にし、集会・結社の自由を毀損したのも、右翼の街宣活動を恐れての萎縮だった。

Egawa Shoko Journal: この萎縮現象は、表現の自由の自殺行為だ

僕は、この二つの事件の類似性の核心は「右翼の街宣活動を恐れて」にあって、「萎縮したものの責任」というのは全く感じない。だいたい、表現の自由を建前にする際に、右翼の主張の自由はいつもどこかに行ってしまう。そこは論点ではないけれども、若干の違和感があるところではある。
だけど、

もちろん、大音響で威嚇的な抗議を行い、嫌がらせを行う個人や団体も問題だ。
こうした嫌がらせから、警察が言論・表現・集会の自由をどれほどしっかり守っているか、ということも問い直されなければならない。

Egawa Shoko Journal: この萎縮現象は、表現の自由の自殺行為だ

威嚇的な抗議を行う個人や団体は問題だ。むしろ、それらの存在に対して映画館が責任を引き受けて上映を強行しなければならない社会的使命などは存在しない。一年中東映まんがまつりであってはならない理由がないくらいには。
だけれども、表現の自由を際限なく認めるのであれば、右翼の抗議のどこが悪いのか、ということにもなりかねない。そもそもがマスメディア自体が権力の監視や是正を標榜している存在ではあるのだが。
そして、警察が言論・表現・集会の自由を守るべき存在かというと、それも疑問だ。警察が秩序を守った結果として、これらの自由が守られるわけであり、誰かの自由を排除することによって他の人の自由を確保しようという話では全くない。度を越えた嫌がらせを取り締まる以上のことを警察に期待してはならないし(なぜなら、警察の介入が度を越えるということは表現の自由への干渉であるからだ)、期待できる行為そのものも「表現の自由を守る」行為だとまでは到底いえない。
ありていにいえば、右翼と戦うべきはプリンスホテルも映画館でもなく、日教組や配給会社であるのだ。これもちょっと無理筋な話ではある。戦ったところで上映の場が得られるわけでもない(むしろ、揉め事を起こすことで余計に拒否の姿勢をしめされるだろう)。しかし、映画館が戦わないことを選択したことに対して「自分たちは「表現活動の場」を提供しているという自覚の欠如には、唖然」とするのはおかしいのではないだろうか。少なくとも一流のジャーナリストが書くようなことではない。映画館も商売である以上、上映することのリスクがリターンの期待値を大きく下回るのであれば、現実的に上映することは出来ない。そうではないか。表現活動の場を提供することを継続して続けていくためには、映画館を潰してはならないのであるから。長い目で見ると、ここで屈したことが表現活動にとってはマイナスであるかも知れないが、映画館の経営は大富豪の道楽なわけでもないだろう。
純化すると、この問題は、大音響で威嚇的な抗議を行い、嫌がらせを行う個人や団体「が」問題というだけのことであり、それ以上の問題ではありえない。プリンスホテルの場合は、契約不履行であり、裁判所の命令無視であるところが最大の焦点であった。今回はそうではない。映画館は「表現の自由」に忠実な飼い犬なのだろうか。そうではあるまい。
配給会社自身でサラリーマン金太郎よろしく乗り込んで、いや、山岡士郎流に料理で丸め込んでも良いから右翼を黙らせることができるのであればよいのだろう。それが出来ないのであれば、戦わないことを選択した映画館に文句を資格すら危うい。もっとも、一度は配給すると言明したのであるから、愚痴の一つや二つは出てくるのは仕方がないが。
社会正義を貫くことのできる職業などごく限られていることを自覚し、戦略的な言動を行っていかないと、ジャーナリストなど風前の灯火である。矢面に立つのは誰であるべきかが問題の本質だとしたら、真っ先に立ち、また盾になるのがマスコミ(というかジャーナリズム)の使命なのではないか。映画館の責任を並びたてて、味方の最前線に向けて後方射撃をしているようでは、お先真っ暗ではある。