復讐の委託

犯罪の被害者が加害者を責める気持ちはわかる。きっと復讐が許されるのであれば自らの手で縊り殺したいと思っているものもいるに違いない。そんなんで意見陳述でたら当然怒りをあらわにしてしまいますよね。

怒りをぶつけられた少年の一人は少年院で自殺を図ったが、命を取り留めたという。

ネットで実名公開・非難も 少年審判参加の被害者遺族 - 中国新聞ニュース

被害者遺族からしてみれば、加害者の命など何億の中の一人に過ぎず、被害者の命は相対的にもっと大事なんだよね。だけれども、こういう行為はその大事な被害者の命を相対的に何億の中の一人に落とす行為でもある。もっとも、そのことにより諦念を抱きやすくなる効果はあるかも。
ここ最近、死刑の是非、裁判のありよう、弁護士のありようなどについて考える機会が多かった。多分、みんなが納得できる答えはないのだろうけれども、少なくとも、刑事裁判というものは復讐を委託するためにはないということは言えそうだ。
極端な話、「信号無視は死刑」という社会であったとき、その量刑はルールすなわち秩序のためにあり、それ以外の理由はない。多分ね。裁判である程度感情が斟酌されるのは、感情のコントロールも秩序の為に必要なものなのだからであろう。それが結果として復讐に見える場合もあるのかもしれない。
復讐の是非というと、現代では度を越えた復讐(いたずらの域を超えたらみんな度を越えた、だと思う)は許されないはずだ。もっとも、そのことを説得力のある形で示す為には、犯罪者が適切に処罰され、また、更正することである。けれども、冤罪が起こり、再犯が起こり、出所後犯罪を武勇伝として語られるようでは感情的には復讐を抑えることは出来ないだろう。でもこれを突き詰めていくとSF的に脳内チップでどうとかそういう話にならざるを得ない。それなら産まれたときから何がしか埋め込んで犯罪行為を抑止するべきだけど。
人間として生きるということ自体、難しいことではある。