弾圧も何も、言論の自由なんて相対的にしか存在しないんだけどね

言論の自由を守るためには社会に対する対価が必要なんだ。対価がバランスさせる範囲でしか言論の自由は保障されない。あくまで相対的なものだ。というと、絶対的な原理として、あるいは自然権として?、言論の自由があると思っている向きは否定するかも知れないけれども。
2ちゃんねるなんかは発生している多大なコストを払わないで回避するという荒業でコストを下げているけれども、そういう一部の例外を除けば、過剰なコスト源は排除される。フリー(タダ)でフリー(自由)なインターネットなんていうのは幻想に過ぎないことは結構な人がわかっていると思うけれども、匿名になればコストを払わなくてもいいなんて考えている人は匿名であることによるコストを少しずつ上げている。
表現の自由が、言論の自由がインターネットに与えられていると考えるのは、間違いだ。影響力×コストがトータルの支払いだとすると、既存のメディアよりも影響力が極めて過少に見積もられているからこそ支払いが少ないのであり、今後影響力が増すにつれ、言論の自由パトロンの存在を必要とするだろう。あたかも巨大なメディアがある方向の言論だけを擁護するかのように。
一つのインターネットは、しかし、一つではない。一つに統合されるような未来を感じるGoogleの成長を怖れる人がいることもむべなるかな。つまり、そういうことだ。結局のところ、究極的には強い力をもつ言論にはコスト負担者がついてまわり、かくして世界は秩序を取り戻す。
細々とやっていたアブノーマルな言論は、ウェブが力を持つことによりかえって駆逐されるのだ。それでも、何かを信じて、僕達は語り続けるのだろうか。