オタ気質

言葉の定義とかの話になるとアレなんで最初に断っておくけどオレオレ定義的雑感。
そもそも、オタクってのが「何かを体系的に語る」ものではないと思うんだよね。SFは大衆に迎合して終わったとか言うけどそれは1000冊読めとかの話じゃなくて。1000冊読めはマニアの資格みたいなものかも。マニアは語るのがマニアたるゆえんで、そのマニア的語りの文脈の中にメタなネタがどうしても登場する。つまり、その世界の衒学ってことね。一方でイーガンみたいな王道かつ超ハードなSFが現存していたりするってのはどういうことか。ジャンルが終わったんじゃなくてメタ視線からの開放なのかも。だからといってマニアが去るわけではない。けれど、全部読むことが不可能になれば分類・体系の中で再構成されるしかない。拡大し、縮小する。そこからジャンルが生まれなければ、拡大し続けて大衆小説化するよね。ミステリなんかもそう。ラノベってのは錆びた刀を焼きなおしているようなものかも。
んで、オタクってのはそういうのを超越した気質に思える。マニアが見せびらかすための所有欲ならオタクは独占するための所有欲みたいな。独占っていってもできるわけないんだけど、そこを精神世界で囲ってしまう。分析も体系も不要で、愛があればいい。そういうもののように思える。
「オタクはすでに死んでいる」という書名が酷いなと思うのは、こんなに人口に膾炙した「すでに死んでいる」という、それもどう考えても登場時から若年層大衆文化のトップを極めたマンガ雑誌から出た、パチスロにもなってしまったようなもののセリフをもじったオタ論書はないだろうというところか。オタクを文化として捉えようとして見事に失敗している様を表わしているように見える。オタクは文化かというとそうではないと思う。ジャンルが出来て、マニアがいて、一般人がいて、空間が出来る。その空間の個人的搾取がオタクではないのか。搾取というと不穏当だな。享受くらい。
いずれにしても、ジャンルに何がしかの空間がないと存在できないのであれば、「1000冊読め」でマニア空間が弱まったジャンルにオタクが存在するためには説明不能の愛ががないといかんし、多分それは萌えなんていう概念でもないんだろう。いやどうかな。萌え自体の性質がよくわからんのでなんともいえない。このことは「鉄子の旅」を読んで感じたこと。
きっと最初から生きたオタなんていなかったんだ。ジャンルの空間が弱まると幽体分離してその確固たらない姿が見えただけなんじゃないかな。愛ゆえに100冊は読んだけど、愛が理由で1000冊読む必要はない。
僕は何オタかというと多分楽器オタクなんだろう。100本吹いてから言え?たまたま出合った楽器を愛す。それだけ。無条件ではない。その選別する基準への傾倒がオタ気質なのかもしれない。