「普通」の考え方はどこから来るのか

社会って、「みんながそう思う」方向に誘導されてきたのか、「誰かがそう思う」方向に誘導されてきたのか、どっちなんだろうか。民主主義が人間の根源に根ざしたものなのか、社会の都合でそうなったのか、とか。
id:hituzinosanpoさんにブクマコメントへのお返事を頂きました。

理解されるよう めざすけれども、それでも まだ理解できないという ひとがいれば、そのひとに なんと いえばいいのか、わたしには まだ わからないということです。/頭から あきらめているわけでなく。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080725/1216980137

僕のブクマコメントは自分自身に対する覚書のようなものだから、別のところで指摘されたように、頭の中で整理はされていませんが、感想を書くつもりで言及してみます。

「統計的な認識には あらわれてこないもの」が、たくさんあると おもっている。たくさんのひとたちと、きちんと むきあうことでしか、発見できないもの、感じとれないものが いろいろ あると おもっている。

マイノリティについて - hituziのブログじゃがー

これはその通りだと思います。そして、多くの人に向き合う必要があればあるほど、きちんと向き合うことへの物理的な障壁(時間とか距離とか)があるから、相手を汎化して扱う傾向があるんじゃないかと思います。

わたしにとって「統計的認識」というものは、それほど重要なものだとは おもわれない。むしろそれは、ネツゾウされた「ふつう」認識を再生産するというか、そういった「統計的なもの」こそが、「正常な人間」という概念をうみだしたのだと おもっている。

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なので、社会の要請における「正常」を念頭に置きながら人に対峙する、というのは致し方ないのかな、とも思うわけです。

要するに、問題は量的なものではなく、両者の関係が どのように規定されているのかということだ。どちらが支配的で、特権をたのしんでいるのか。どちらが抑圧されていて、くるしめられているのか。

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例えば、正規雇用された人と、非正規雇用された人の力関係は、一定ではないですよね。そして、それぞれに特権があって、それぞれに抑圧がある。力関係で言うと、正規・非正規のところにではなく、労働者と雇用者のところに発生しているのではないでしょうか。対峙している「関係」とは、男性・女性/正規・非正規ではなくて、突き詰めていくと、社会対全て、なのでは、と読んでいて思いました。社会ってのも曖昧ですけれども。

ただ、重要なのは「マジョリティに安住しないこと」だと おもう。それが できないひと、したくないひとには、わたしが なにをいっても、共感してもらえないだろう。わたしも、かたるべき ことばを まだ みつけていないのだから。相手のほうも、うけいれる準備が できていないのだから。

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ここでいう安住しない、というのは「ふつうという視点を持たないこと」と考えればよいのかな。僕の思う多数派は、どちらかというと量的な問題が主にあって、それによって「自分たちが普通である」と規定する人という意味合いがあります。考え方そのものではなく、考え方の枠組みの問題であれば、統計的に多数の側を維持しつつも「ふつう」の概念を外すことはできるのかもしれませんし、それが考えそのものの押し付けではない、と考えることもできそうですね。
実はちょっと引っかかったのが、この「うけいれる」という言葉で、それは別のエントリでも書いたしブクマでコメントもしてずっとぐるぐる回っているんだけど、みんなが何か共通の、考え方を受け入れることができるのか、あるいは、それを受け入れたとしたら、それ以外の考え方は「間違っている」ことにならないか、ということなんですよね。
また、うけいれさせることの目的はなんなのか。いわゆる「世の中こうあるべき」ということで意見を押し付けていく、というのは非常にわかりやすいのですが、そうではないですよね。少しでも同じように考える人を増やしたい、なら量的な目的を目指しているようにも見えてしまうし、そうでなくてやっぱりべき論なのだとしたら、なんらかの「ふつう」を要求しているようにも思ってしまうのです。そして、あたまのなかがぐるぐるします。

、「だれもが ある点においては少数派に属するところがある」のだから、「自分のマイノリティっぷりに意識をはらい、社会の抑圧性に気づくことができれば、それは、社会のありかたをふりかえり、批判的意識を発展させるのに つながるのではないかと おもう」。

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抑圧されることが社会のありかたとして問題ということであれば、それに対する答えは社会がそれを受け入れよう、ということになるのかな。だとしたら、それらの関係性がフラットになることが最終形ですよね。そこには美醜も卑賤もないのかな。
この話を考えるとき、僕はいつも突き詰めた結果として、人間が人間らしく生きるとは、機械のように生きることだ、という結論に達してしまい、あたまをかかえるのです。
どこかで間違ってしまったのか、それとも、どこかで止まらなきゃならないのか、まだよくわかっていません。