着地点を考えつつ界隈に口を出す

※夏休みボケモード思考垂れ流しエントリに付き注意

医療問題とトリアージの話は全然別の文脈で出てきているんだけど、最終的に制度として落とし込まれるときに何がしかの政治的判断が伴うだろう、という点で、自分の中の線引きの場所を明確にしておかなければならないのかな、と思っている部分があります。
正直なところ、内心では相当動いているんだけど、色んなところに賛同障壁wがあって賛同できないところが沢山。総論で合意できても各論には賛同できないときに、総論で合意したら自動的に各論にも賛同したと見做されるような空間は壊していかなければならんと思うのが僕のポリシーなのですが、勝ち負けを重要視する議論空間においてはその態度は対話拒否に見えるだろうからなかなか。
どうやったって「言っていることはわかるけど、俺はそうは思わない」というポイントはあります。そこを何とかしようとする、折伏しようとする、というのはありだとは思いますが、それに人生かけてないと出来ないよね。単に「俺が正しい」と言い張るだけじゃ誰も折伏されません。
「お前の宗教は邪教だ、俺の宗教が唯一正しい宗教なんだ」という態度はある意味立派だとは思いますが、それを認めるのは個人が個人であることの拒否でしかないと思っていて、そういう人の言う平等だ人権だという言葉は脳波がフラット化された機械化人類社会を目指しているんだろうという理解をどうしてもしてしまう。いや、そういうのを目指していないだろうことは狭量な態度とか、排他的な態度により反面教師的に示されているとは思うのですが。
たしなめるを超えて他人を傷つける言動を行う博愛主義者とかは信用されないだろうし、そういった類の、正義の看板しょって何事かをしようとする人が人に信頼されるためのハードルってのはものすごく高い。だって話を聞く側も表面に出すかはともかくとして、内心自己の利益をできるだけ考えようとする心は残っているだろうから。
自己中心的で不平等で排他的な、ある意味邪悪といってもよい自分を自覚しつつ、理想と現実にどう折り合いを付けていくかを考える。社会の制度なんて誰かの要請によって成り立っているけど、その要請を全部実現なんてできないから、常に不満が渦巻いている。批判されようが何しようが何かを切り捨てることは絶対に必要で、その要請が如何に自分勝手なものであっても切り捨てることそのものに内在する「最適化」から逃亡することはできないわけで、最適化を忌避するために要請が均一化すればよいという洗脳政策もまた最適化なのであって結局のところ弱肉強食か否かに帰結してしまう、というのが原理なのでしょう。じゃあ、弱肉強食ではない、としたときに、人としての有様と社会の制度が一致するところまでいくかどうか。人としての有様とは何か、を統一することは…あーループしてるなあ。
ということで、自分を基準に考えたら、今は一足飛びに純倫理なるものを考えても完全に机上の空論かな、と思うわけですね。
ストイックな宗教の人みたいに自分で身を持って何かを示すことができることで初めて伝わることもあるだろうし、かといって、それが示す内容を是としきれない人の弱さというものもあって。思想を現実と折り合いをつけるのってのは大変なことなんだと思うな。思想家であらんとする人はそこを超越していなければならないのでしょう。現実と折り合いをつけている人が思想家然としてもそれほどの説得力は持ち得ないのかも知れない。