遺族が納得の行く医療の為に

昨日一昨日とちょっと心のおもむくままに書きすぎました。ちょっと冷静になってみよう。
判決を受けて、事件に到るまでの患者さん及び遺族の対応に責任を帰す、という向きもあるようです。そこに書かれていることが事実であれば、責任の一端を負う必要はあると思うけれども(逆に言うと、その自責の念の裏返しが今に到る事態を読んでいるのかもしれませんが、それは邪推として)、そのような決断をするに到った原因に、環境、というのはあるのだと思います。そもそも、あの事件を期に産科の医療の崩壊が拡大していった、という評価がありますが、それ以前にどう見ても崩壊寸前だったのに最後の一撃を加えたに過ぎないんじゃないか、と思ってしまいます。だって、事件当時の大野病院の状況ってそうでしょ。だから、突き詰めていくと、もうちょっと前のところに原因があるはずです。行政とか。


というわけで、患者さんや遺族を一方的に責めるのはちょっとお門違いかな、とも思います。だからと言って全面的に擁護するわけではないけれど。ただ、今後の対応は、問われるところです。
こういった痛ましい事件がおきたときに、実際に医者の説明で納得できるか、ということはかなり大きな課題です。正直なところ、他に手の尽くしようがなかったのか、という視点に立ってしまえば、大抵の、代替手段がある治療においては「もし、あれをやっていれば」という思考を防ぐことは難しい。それをしていれば必ず助かった、という保証があったとしても、それを実施できるかどうかは定かではなく、その場になってみないとわからないことです。しかし、失った悲しみが、たられば的思考に転化されたとき、後ではいくらでも考えられる、理想の医療が「行われなければならなかった」という発想になってしまうことは想像に難くありません。


そういう発想は、もちろん、理想の医療のあり方を考える上では大事だと思います。が、個々の事例において、それを達成するのが困難である、ということがまず共通の認識としてないと、現実的ではない理想に囚われて、「それをしなかったからいけなかったんだ」以外の結論で納得することはできなくなります。

全面的に医療の責任として肩の荷を降ろさないといけないという精神状態に追い込まれてしまう遺族もいるかと思います。治療の妥当性、だけで納得をしてもらう、というのはなかなか困難です。治療が妥当であればあるほど、別のところに責任があることになってしまうからです。

しかし、疾病による、あるいは事故(医療事故ではなくてね)による、生命の危機があったとき、その治療において責任の所在を追求する、というのはちょっと難しい。どこから見ても不適切な治療である、という場合はともかく。

感情の所在が治療そのものの上にある、ということが妥当であるか。僕は幸不幸の発想の上に感情を置くべきなのかな、と思います。それ以外に納得なんかできないもの。遺族感情ってのは遺族自身のものであるから、「どう納得するか」なんですよね。誰かの責任にして納得する、というのは恨みの対象を運命に置かなくて良い分、楽かもしれないけれども。


とはいえ、一通り、納得のいく説明を聞かないと、という気持ちはわかります。ここでいう「納得のいく」というのは、「筋が通った」説明であるべきです。しかし、医療の妥当性を専門家でない人に説明するのは容易ではありません。また、緊急の現場というのは、感情が高ぶった状態同士のやりとりになりますから、整理されない、支離滅裂なやりとりになることもままあります。それに、当事者同士の対峙というのはどうしても感情が先に立ちがちですよね。

今の医療に足りないのは、その相互理解の溝を埋める存在です。今回の事件のように、医師が人として「すまないと思う気持ち」があったことがかえって事態をややこしくすることはあります。ここで必要なのは、第三者による遺族ケアなんじゃないかなあと思ったりしますね。遺族カウンセラー的な存在、というのが必要とされているんじゃないでしょうか。治療に対する異議申し立ての妥当性も、あるいはそこで判断できるかもしれません。

内容のないことをつらつらと書いてきましたが、最後に。今、必要とされているのは「相互理解」です。相互に理解するというのは、医者の側もそうだけど、患者の側も理解に努めなければならない、ということです。医療が問題になりやすいのは、医療の常識というのがあまり一般常識として展開されていない、ということにあります。ともすれば、無理解なマスコミや半可通の素人医療マニア等により、間違った知識が伝播されます。悪いことに、医者の中にも対立する見解を提示する人がいます。そして、時にはそれが真実だったりするのが医療の不確実性です。そういった不確実性、というよりは、人体の神秘と脆さまでを含めて理解の対象にしなければなりませんね。そういったことについての、橋渡しを出来る存在が必要とされているのでしょう。ぶっちゃけ、医師が十分に多ければ、そういったことに時間をかけることもできるんだと思います。それでも、理解できない壁はあると思っています。その壁に直面したときにどうすればいいのか。それは我々患者となる側も、常々考えておかなければならないことなのでしょう。