ダブスタ批判の前に

ネットでの議論を眺めていくと、よくダブスタ批判に行きつくことがあります。正直なところ、ダブスタを起こさない人なんて現実の世界にはほとんどいないんじゃないかと思っています。ここでいうダブスタ、というのが何であるかは以下の過去エントリを参照。
だぶ★すた - novtan別館
よく、小説の登場人物なんかで「こいつKYだよな」的な、しかしその考え方とかは一貫していてある局面では信頼される、というようなのがいますよね。あれくらい他者の思考に対して無関心でないと、自分の思考に一貫性など生じ得ないのではないかなと思うわけです。でも、その一貫性は、その価値観の中でしか通用し得ない。だから、人がその思考に触れることで自ら変わることは可能であっても、その思考が主体的に人を変えていくことは難しい。
批判される一貫性のなさ、というのは往々にして枝葉末節であることが多いです。あの手この手を使って他者を説得しようとする中で、視点によってはダブスタと言えてしまうようなことを提示するというのはままあります。現実の仕事なんかでもそうですよね。「アレはいいんだよ」みたいな。その「アレはいい」についての理由が共有されていない人から見るといかにも卑怯な言葉に聞こえます。
先のエントリにも書いたけど、議論の為の議論になってきたときに、自分の置いた前提をうっちゃって他人を批判するが為に別の前提を導入する、というようなのは多分ダブスタ批判をされてしかるべきかと思います。ただ、その前提同士が背反なものであるか、という点に気をつけないと、単なる新しい視点の導入をダブスタと勘違いするかもしれません。
ダブスタ批判、というのは結構ブーメランにもなりがちで、言われている方はそもそもダブスタだなんて思っていないことがあるので容赦なく「ダブスタに見えるところ」に対して反撃してくるでしょう。で、話の本題はどこいっちゃったの?
相手のいいたいことの根本が明らかであるときに、理論のちょっとしたほころびを突いてダブスタ批判を行う、というのは、勝った負けたの議論には必要なことかも知れませんが、そうでない場合に必要か、というと…。特に相手の言うことを悪意に解釈する空間ではダブスタだけじゃなく、皮肉(これは言った言わないになり勝ち)や罵倒(どっちが先に言った論になり勝ち)など、不毛な手段の応酬により議論の目的がどこか遠いお星様になってしまうようなことが多いですよね。ぶっちゃけ罵倒の妥当性に対する議論など物の役にも立たない。
ダブスタを批判するときは、そういった視点、特に「相手が卑怯な態度を取ろうとしているのかどうか」についてはきちんと評価してから行った方がよいと思います。