大炎上な経済の中で頑張っている自分とは何か

「景気上向きっていっても経営者とか株主ばっかり利益になって俺たちはもうちょっとの辛抱とか言われて我慢した結果がこれだよふざけんな」と思っている人は多いでしょうね。もちろん、株主なんかは今までの栄華のツケがどかんとやってきて頑張ってきた僕らは生き残れるけど彼らは死んじゃうかも知れない。経営者は石もて追われる。
きっと中世なんかは「もうちょっとの辛抱って言われて我慢してたら折角上向いてきたところで隣国に攻められて奴隷にされちゃったよ」とか江戸時代なんかは「借り上げとか言っていたのに結局帰ってこないよふざけんな」とか幕末では「鑑札とか言われて仕方なく金だしたら幕府崩壊で帰ってこないよ」とかまあ庶民は権力者に振り回される運命にあるのは仕方がありません。だって社会だもの。
そこを脱却したかったら不作では飢え死に覚悟の自給自足しかないと思ったりもします。
僕らが「頑張った」のも何らかの経済的な動きに連動した結果としての仕事をこなしたわけであって、そもそも頑張るネタがあったこと自体が経済の恩恵なのかも知れないよ、と思うと「権力者のアホどもふざけんな」と思いつつも「俺たちの頑張りを搾取するな」とは思わないんですよね。「頑張った結果をどうしてくれる」とは思うけど。これは愚痴に過ぎないよ。
文句は大いに言うべきだ。でも、「俺の関係ないところで起きた出来事が波及してはかなわん」というのは世界の中の、社会の中の自分というのを見失っているだけにも思える。みんなが幸せになれるモデルを提示でき、またそれが完璧に機能することを提示できないのであれば、誰か(複数の)個人の責にしてしまうことはできないだろう。そいつらが崩壊することを前提に搾取して逃げを打ったのでない限りは。頑張った俺は報われるべきだ、みたいなのは一時的に個人の利益を貪ったものたちと大して変わらないようにも思う。