「科学教」の排他的な教義
関連のエントリを眺めていて、ちょっと一部ピンと来た。
信仰に本当に必要なのは、「私は信じる」で充分なのである。
弱った…。 - シートン俗物記
科学とニセ科学は紙一重だけど、同様に、信仰とニセ科学も紙一重であるわけなんだけど、つまり、科学と信仰の間に横たわるゾーンがいわゆる「ニセ科学」と言われる地帯で、そこへの勢力範囲をどのように広げるかの争いなのかもしれない。
- 作者: グレッグイーガン,Greg Egan,山岸真
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2006/12/01
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水に意識があることを「信じる」こととそれをもっともらしく説明することの間にもはるかなる断絶があるとは思うけれども、じゃあ、水に意識があることをただ「信じる」ことを広めることは科学にとって敗北なのかどうか、というあたりが科学をいわゆる「科学教」と呼ぶのかどうかのキーになっているのではないか。
科学的には「ありえない」ことを平然と流布されて黙っていられるのかどうか。なぜ見過ごせないかというと、例えば、その(科学的に)間違った事実をただ「信じる」ことがその他のことについての思考能力をも奪うことであるという点などが重要だ。
科学と宗教の緩衝地帯である部分で行われる議論が向こう岸の基準値を超えると「科学に踏み込むな」「お前らこそ宗教か?」みたいな論争になってしまう。ただ「信じる」ことを許容した場合、相互作用が発生する地帯がそこかしこに生まれてしまう。
しかし、科学が水伝を非難するのは、根本的には水が生きているかどうかの問題ではなく、間違った観測によってそれを「証明」しようとする行為に対してではあります。例えば、水が実は5次元生物で人間には知覚出来ない5次元で意思を見せてるのかもしれない(この話はあまり科学的な記載ではありませんが、わかりやすい例として)、と思うことは勝手なんだけど、だから優しい言葉をかけると結晶が…という話になったとき、そんなわけはあるまい、正しい実験の仕方で明らかに有意な差が出たら「不思議な現象だね」といわなくもないけれども、という話になるわけで。
そういう如何にもニセ科学な説明を抜きにして「水は意思を持っているんですよ」といわれたとき、でも現在の科学の知識からすると、それはありえない、と強く主張するのが「科学教である」という見解は、なんとなくわかる気はする。つまり、科学は科学で説明できることと反することはすべて否定する排他的教義の宗教である、と、そう言いたいのではないかと。
しかし、本来科学と宗教が活動するフィールドは別なんだ。もちろん、そのフィールドの定義が先の緩衝地帯の勢力争いを通して変わってきたのも確か。地動説だって進化論だってそうだ。「現在の科学」とは常に宗教のフィールドを侵食している。だからといって、科学が宗教としての一面を持っているとは言いがたい。「でも私はそう信じたいんです!」って言われたら「はいはいそーですか」って言わざるを得ない。とにかく、科学のゾーンに踏み込むことさえされなければよいわけだ。
だいたいさ、水が意思を持つかどうかなんて人の心を助けるものである宗教にとってはまったくどうでもいいことだよね。
ただ、急進的な、それこそ「科学教信者」みたいな人もいるのでそういう人に対する反発がこういう「科学教」的な見方を強めているのかもしれないけれども。何でもプラズマで説明するのは科学じゃないと思うんだけどね。