語るのを避けるにはどうしたらいいのか

何がしかが事実であるかどうかを語るためにはそれなりの背景知識とそれなりの見識をもった上で証拠を積み上げていく必要があり、その場に居合わせたとかではない限り、その事実は論理的な帰結でしかない、居合わせたとしてもあくまで観測者としての一視点で捉えた事実に過ぎず、タイムマシンと思考読取装置のあわせ技でもない限り真実は絶対に捉えられない、という歴史観(というと違う気もするけど)を持っている人がいたら、その人は「絶対的真実はない」というかもしれない。
見識を持たないことに対する誠実な態度としてとりうるのは。口を噤むしかないのだろう。自分の見識をもって語れない以上、他人が主張する何がしかを留保なしに事実とは認めがたい、という立場としては。
それでも言及せざるを得ない状況に立たされた場合、「絶対的真実はない」としか言えないのではないかと思う。「自分は知らない。だから権威(あるいは主流派)が正しい」なんて言ったら馬鹿にしか見えないし。
次善の策としてはその問題についての見識を深めることだけど、もちろん専門家じゃない以上時間などのコストを費やした上でようやくある程度得られるに過ぎない。幸い、証拠集めや理論立ては専門家が行ってくれているわけだから、そのあたりをある程度はしょって主にその評価だけすればよいのかもしれないけれど。
知らなければ語ってはいけないことがどうも多すぎる。もちろんそれは言論弾圧だという意味ではない。けれども、「絶対的真実である」として押し付けられたらそれに抵抗がある人は多いんじゃないかとも思う。