禁止脳を生むもの

以前も似たような話を見かけて、そのときどう思ったかはよく覚えてないけど、今思うこと。

埼玉の女子中学生が自殺した事件を受け、文部科学大臣がケータイについて「携帯の学校への持ち込みについては近々、国として方向性を出す。特別な場合を除いて持たせないとか、学校では使わせないとか」と語ったらしい。実に馬鹿げている。そんなに禁止が効果的なら、いじめを禁止すればいいじゃないか。

禁止脳の恐怖 - 雑種路線でいこう

もちろん、いじめを禁止したいよね。そんなに効果があるなら。
携帯禁止が意味あるとしたら、それは世論に対するアピールだとは思う。なぜそんなアピールをしなければならないかというと、世間が何かしら対策を求めているからだよね。対策しても意味ありません、じゃ納得してもらえないし、でも本腰入れて対策って言っても長きに渡っていじめをなくそうと努力してきたにもかかわらず、なくならないという現実がある。なくせっていう即時的な要求に対してこたえなければならないとしたら、アドホックかつ限定的かつ効果が定かではないものでも打ち出さなければ無能の烙印を押されてしまう。
起きた事件に対して今行われているとは違う対策を求めてしまうことが馬鹿げた対策の源泉かもしれない。

実に馬鹿馬鹿しいがケータイ禁止と大して変わらない理屈である。

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いろいろ列挙されて禁止することが全体主義国家への道だとされていますが、じゃあ銃器や麻薬はなぜ禁止されてよしとするのか、と考えると、それぞれの禁止は社会的要請が十分にあれば問題ない。携帯禁止が馬鹿馬鹿しいのは携帯電話そのものが直接的原因(=凶器)ではないからに過ぎないのではないか。

それとも禁止って当局は責任持たないよってエクスキューズなのか。目立って自殺や事件が増えているわけでもないのに随分と傍迷惑な話だ。まず事件への脊髄反射で禁止を連呼する安っぽいポピュリズムこそ禁止して欲しいところ。

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「目立って自殺や事件が増えているわけでもない」から対策はうたなくていいです、今までどおり減らすように努力しましょうよ、というのが世論であれば、禁止論などはじめから必要ない。
脊髄反射をやめるべきなのは、まず「何かの対策を!」と求める世論(はもしかしたら読者にアピールしたいだけのマスコミ、というだけなのかもしれないけど)ではないのか。もちろん、短絡的に「じゃあ禁止しましょう」という政府もあまり有能とは思えない。でも、単純に禁止の悪いところだけ列挙して「禁止脳」という風に片付けてしまうと個別の議論はできない。禁止が有効なものだってあるだろう。