手段が目的を凌駕するとき

曰く

  • Winnyは自作のポエムを流通させるため
  • マジコンは自作のソフトを動かせるようにするため
  • etc...

あくまで例ではあるが、このような言い訳の仕方はどんなところにもあり、大概が建前である。その建前が依拠しているところはかなり広範なものを含む「権利」であるがゆえに、建前の裏に隠れた本当の目的(そしてそれはたいてい社会的になにかしら問題がある)を叩くために、その権利が犠牲になる(管理される、というレベルのものも含めてだ)ことがある。本末転倒である。
ダウンロード違法化にしても、Winnyを例にとれば、建前が本当なのであれば本来利用者全体が進んでP2Pによる違法な交換を忌避すべきである。少なくともそこには権利はなく、建前どおりの用途でしか使われていない(つまり、建前ではなく実態である)ことが証明…といかないまでもある程度のデータとともに提出されれば取り立てて問題になることもなかったであろう。実際には、映画やゲームは多数流通し、それに伴って個人情報をばら撒くウイルスも流通している始末だ。
かくして、ダウンロード違法化という、本来の目的とは逸脱した、しかし、そのくらいのことをやらなきゃだめなんだ(という思い込み、勘違い、政治的な別の意図)という手段を選択されるに至る。アップロードをもっと取り締まればよいと主張しても無駄である。もはや手段などどうでもよいのだ。手段が本来の目的を超えて適用されるとき、それに便乗して別の目的を紛れ込ませ、結果として合目的的な手段になってしまっているからだ。

つまるところ、消費者の権利はまた一つ政治に敗北を喫したわけであり。

なんだってそうだろう。目的として建前とは違う裏の意図がある場合、それが建前と乖離すればするほど建前は一般論的に大きくならざるを得なく、実態を取り締まるためには建前を実現する手段を取り締まらなければならないという方向の判断をされてしまった時点で大失敗なのだ。