われわれがみな獣でしかないのであれば、理性の価値はどこにあるのか

問題は本質的に獣かどうかじゃなくて、言語的コミュニケーション不全、これは必ずしも本人の能力の問題ではなく言語そのものが持つ社会的な機能の問題かもしれないけど、のせいで(いろいろなものの)一線を越えるときに獣にならざるを得ない状況が起き易い、からかもしれない。究極的にはテレパシーでも使えない限り、真に意思の疎通ができることはないわけで。
日本語は婉曲話法が多すぎるし、その文脈は必ずしも共有されていない。階級社会であれば、文脈を叩き込むことが階級そのものの証みたいなものだし、共有できない人はつまはじきにされる(イギリスなんて今だってそういう気配あるよね)。日本では表面上の非階級社会化は進むは西洋的な価値観はどんどん流れ込むはで言語の社会的機能と社会の要請するものがすりあわなくなっているかもしれないね。なのに、「言葉なんて自由に使えばいいよね」という方向にしか進まない。別にそのことを非難するつもりはないけど。
と、単なる思い付きだけで書いてみた。