信仰と科学と医療と

代替医療批判をすると、しばしば耳にする批判批判。「科学教」。でも短絡的にその言葉を持ち出す人はたいてい気づいてないのだけど、科学、あるいは従来の医学の立場から否定される代替医療は、自らを科学であると吹聴していることが多い。
科学は信仰ではない、というのはそれを絶対の真理として盲信しない、というところで担保させているとは思っているけれども、それでも科学が信仰だとしたら、それは生きているなかで何かを決断しなければならないときの判断基準として信じるべきものの一つとしてという意味だろう。感情的に動くか、論理的に動くか、といったときの論理側の一つの形態に過ぎないというか。

現代の医療は、メカニズムの解明の研究は科学的に行われることを前提としているし、効果の有り無しを判定することも科学的に行われることを前提にしている。ただし、メカニズムが判明していることが有効性の前提にはなっていない。ホメオパシーについていえば、そのメカニズムの仮説の時点で従来の科学を逸脱している(ゆえに、仕組みが「わからない」ものよりも余計にダメなもの扱いされるのであるが)ものの、臨床的に有効性が示されれば採用されることに問題はない、と思っている人は多いだろう。なのに、未知の科学によるメカニズムの証明の期待だけを主張し、実際に現場で採用される際にもっとも重要なエビデンスをおろそかにしている。科学の立場から批判されうるのは、ホメオパシーが科学的であるという主張をするための最も重要な要件を満たしてないことが理由でしかない。


だから、ホメオパシーとは信仰なんだ、ということをはっきり言うことにより、ようやく個人の自由の領域に落ちてくる。とはいえ、個人の自由を広く解釈すれば、従来の科学は間違っている、科学教に騙されてたまるか、という考え方もあるだろう。むろん、従来の科学を科学的でないというのは無理で、なぜなら科学的と言うのは従来の科学のアプローチのことを言うのだから。よって、従来の科学はおかしいというのであれば、新しい体系を打ちたて、自然での蓋然性の証明を積み重ねていかなければならない。並行世界では科学の仕組みが異なっていた、というSFが現実であることを証明するようなものだ。多次元世界として隣接する世界の法則を砂糖玉レメディを通して取り入れるんだ!みたいな。ハイパー医療SFファンタジーとか書けるなこれ。


科学っぽいメカニズムの説明なんて、医療にとってこれっぽっちもやくにたつものではない。言い過ぎか。メカニズムを考えることによって、臨床試験をやる前にある程度その有効性の有無を判断できる、くらいか。


医者を、あるいは科学を信用しないから代替医療に走る、という個人の選択についてことさら是非を問うことには意味はないのかもしれないけれども、本気で病気を治そうとしている人に対して「これは効果が証明されている医療です。信仰ではありません」とさも選択肢の一つとして成り立っているかのように提示するホメオパシーは、長い目で見るとそのプラセボ程度の効果が世間に貢献するよりも大きな悪い影響を与えるだろうから、きわめて利己的な理由としても批判したくなってしまう。