科学は賢い人を救わない。いわんやバカをや。

ということがわかったそうで。いや、わかっていたそうで。
孫引きですが。

科学の知識も科学の方法も、効いてそうにない結果となっている。確定的なことは言えるようなものではないが、科学の知識や方法を教える他に、別の手が必要なようである(もっとも、そんなものが存在するのかわからないが)。

科学の方法を教えても解決しないかも: 忘却からの帰還

うーむ。そしてこんな話も。

で、これらから言えることは、「ビリーバーを説得するのは非常に困難なので、ビリーバー対策は諦めて、ビリーバーになる前の人々に情報を先に注入することで、ビリーバーになるのを防ぐ」というのが、現実的に狙える限界線だということだろう。

否定論者と戦うときに Again: 忘却からの帰還

厳しい。これは厳しい。結局、頭の良い悪いには多少依存するかもしれないけれども、自分の記憶や考え方に信を置き過ぎないという態度があってようやく最低ラインを突破できるというようなことに思える。

思えば、インターネットの世界に触れ始めた頃って、色々な新しい情報にあふれていて、当然それを適切に評価する知識も考え方も持ち得ない状態で、陰謀論に染まっていく自分がいたようないなかったようなもう忘れたけど。医療問題、ニセ科学の問題、様々な議論や理論に触れて、少しはマシになったと思うけれども。

人の記憶が如何にあいまいで、また、その記憶を引っ張り出すときに如何に主観に左右されてフィルタリングされたり変換されたりするかが引用した研究からよくわかります。

世の中には間違った情報も、正しい情報も入り混じって流れているし、自分の記憶だってそうだ。だとしたら、どのように正しいことを判断すればよいのか。まあ何が正しいかなんて必ずしも一意に決まるものではないけれども。といったときに、でもやっぱり科学の方法は重要で、少なからず科学の方法に乗っていないことであれば、間違っている可能性が高いと判断することは可能だろうね。もっとも、科学の方法に乗っていれば正しいというわけではない。なぜなら、方法はあっていてもデータが正しいとは限らない。データはそれが正しいと認められるまでは正しくないのである。となると、やはりそこには権威が必要で。といっても、「えらい」のが大事なんじゃなくて、ちゃんと追試をしてデータを確認してくれそうなことが衆目を持って一致している、ということであるけどね。

インターネットの登場によって、間違った記憶を訂正したり、常に外部にエビデンスを求めることが容易になったとは思うんです。その反面、間違った情報が常にあふれている。第一印象が記憶にとってものすごく有効なのであれば、誤った情報に先に触れる可能性が高いインターネットは科学の敵かもしれない。正しい科学教育が学校で出来るという仮定の下であれば、インターネットは科学の基礎教育を終えて初めて触れていい存在なのかもしれません。極端に言うとね。

ほら、どう考えても言っている事が陰謀論でしかない政治家とかいるじゃない?あれって必ずしも頭が悪いからってわけではないんだと思うんだよね。むしろ頭が良くて、エビデンスを客観的に分析する能力がある人ほど、陰謀論の罠にはまりやすいとも思える。みんな少なからず心当たりあるんじゃない?実際には、データが間違っていたり、他に解釈のしようがいくらでもあるのに、そう信じたいからそれこそが唯一の結論としてしまったり、というのが大半だったりします。陰謀論って、いろんなことの責任を他人のせいにできるから、心理的に落ちていきやすいんだよね、多分。
でも、そういうことに対する想像力自体は、人類に与えられた英知の一部だとは思っていて、むげに否定すべきものじゃない。なにごとかが飛躍を遂げるのに適切な思考は必ずしも科学的な思考に基づいているものではないとも思う。理屈は間違っていたけど、結果として正しかったことはよくあるし。ただ、プロセスが重要視されるべきところでそれを無視することは出来るだけ避けたいし、確率の問題の中で、その確率を誤認するような屁理屈も避けたい。

結局のところ、「自分が信じたいこと」に対しては勝てるものなどないのかもしれない。たまたま、信じたいものが「科学」である人だけが、科学的思考の元での行動を可能にするかもしれなくて、それはその人の知能が優れていることを意味しないし、科学的思考は容易に間違いうるという意味で、常に正しさを包含しているわけでもまったくない。
とはいえ、世の中の色々な方法論は多分に科学的な方法論であるから、科学を信用しない人にとっては生きづらく、また、陰謀論に陥りやすいのであろうね。