「放射能差別」と知識人の憂鬱

恐れていた事態はちゃくちゃくと進行中らしいです。

原発事故で被ばくを恐れ福島県から避難してきた子供が「放射能怖い」と偏見を持たれるケースがあるとして、千葉県船橋市教委が全市立小中学校長らに配慮するよう異例の指導を行っていたことが分かった。

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110414k0000m040137000c.html

子供は、無垢で、素直で、正直です。怖いもの、汚いもの、嫌なもの、そういったネガティブな存在について、正直にネガティブに反応するものです。次第に社会性を獲得していく中で、そういったものへの付き合い方を学習し、価値観すら転換させることになるのですけれども。

放射能が怖い。大人たちが皆言います。福島県から来たものには放射能が付着している。近づくと被曝する。大人たちが皆言います。大人たちは、それが過大な物言いだということもわかっていて、念のため、ということもわかっていて、そう言います。子供たちは、しかし、それを単なる事実として受け取るわけです。

放射能が怖い。うんこが汚いのと同じくらい、子供たちにとっては自明なこと。学校で大をしてはいけないのと同じくらい、放射能は浴びてはいけないのです。

放射性物質が、健康に被害を与えることは、ある条件の元では確かなことです。それは、水にも致死量があると同じくらい確実な話。一方で、福島県から来た子供たちが、健康に害がある放射能を周囲に放っている、というのは、DHMOの摂取で人が簡単に死ぬというくらいウソっぽい話。

原発の、今の状態の危険性について、誰かが訴えなければならないのは確かかもしれないけれども、それが、放射能差別のきっかけになるってのも確かです。果たして、怖い怖い連呼している知識人たちは、このような結果を想定していたのでしょうか。あろうことか、孫子までカタワで産まれる、なんて言い放つようなモノが出る始末。

もし、本当に、人体に、特に遺伝子に大きな影響を及ぼすことになるのであれば、結果として、われわれは、何らかの差別をすることになるでしょう。そして、それは「万が一」という前提のもと、既に始まっています。それが知識人たちの自己防衛の結果だとしたら。

人間が、肥大してしまった頭脳で何を考えるべきなのか。差別はある種の合理性の帰結であるならば、自己防衛はその種の合理性とは相反するもののようにも思えてしまいます。つまり、徹底してない。どうせ徹底できないのであれば、隣人への愛を導き出すために、頭を使いたいものです。