原発差別問題は障害「者」への差別ではないと思うんだよね

ということを、これを読んで思った。

しかし、反原発放射線の危険性を うったえる運動は、いまだ優生思想(障害者差別)を 解消できずに います。

反原発を 分断する優生思想。 - hituziのブログじゃがー

運動それ自体にはそういう側面はあるかもしれない。けれども、こういう運動に賛同してしまう側が思っているのは、「障害者は社会の迷惑だから来るな」ではなくて、「自分たちを障害者にするかもしれない原因を内包している奴らは来るな」という勘違いに基づく恐怖なんではないか。
例えば、かなりの高確率で障害を発生させることがわかっている薬品があったとして、それを「障害者は社会で受け入れるべき、差別すべきではない存在だから、その薬品の使用が制限されるべきではない」という主張をしたらきっとアホかと思われる。結果としてなってしまった障害者を差別するべきではないけれども。
原発が訴える「放射能は障害の原因になる」という事自体は(それが大枠として誤っていることはともかくとして)ダイレクトな障害者差別そのものとは言えないんじゃないか。怖れの原因をきちんと掴まえておかないと、「差別だからよくない」というだけで終わってしまう。
伝染病を隔離することが差別になるのは、それが伝染病ではなかったという事実が必要(というとちょっとアレだけど…)とすると、やっぱり大切なのは、放射能に危険があるかどうかであり、また、放射能(を浴びた当人)に本当に危険(将来の問題も含めて)があるとしたら、やはりある程度社会における扱いが変わってきてしまうのは社会の仕組み上仕方がない部分はあるかもしれない。差別はリスクの排除という機能である側面があり、歴史的にリスクと見做されていたもの(穢とか)は本当はリスクでもなんでもなかった、という事実もある(あくまで一つの側面としてね)。
だからこそ、事実と異なる危険性の訴えは排除すべきだ。結果として生じてしまった障害を差別すべきではないけれども、そもそもそんなところから障害が生じないのであれば、回避するリスクではないわけで、根本原因を排除するのが正攻法で有るべき。

「正しく恐れる」=「容認しうるリスクであるかどうかを評価する」ことでなくなる差別はあると思う。

障害を持つことがリスクではない、と言い切れる人はそれほど多くないと思う。同時に、結果として障害を持ってしまったことへの差別を容認しないという人はたくさんいると思う。可能性と結果をきちんと切り離すことができないと、リスクと優生思想の問題は常にセットで語られるんじゃないかな。障害賛美とかリスク評価そのものを差別と言ったりすることがそこをつなげてしまう。
(でもリスク評価は本当に難しい問題で、一線を超えると優生思想そのものに転化するからなあ)