恫喝アイコンとしての入れ墨

なにかと批判され気味な橋下政策ですが、入れ墨職員の件については賛否分かれてますね。
元々罪人アイコンとしての入れ墨はそれを権力が強制していた時代は差別アイコンでもありました。転じてアウトローアイコンになり、さらに転じてやんちゃファッションになって今に至るわけで、現在でもアウトローアイコンの要素を強く持っています。入れ墨自体には他にも呪術的な要素が絡んでいたりしますから、すべてがそうであるわけではありませんが。
現代において、入れ墨は先天的なものではなく、また自分の意志無しでは入れられない(DV的な話は別としての)ものであるから、そのアイコンとしての機能性は失われていないですね。
日本なおいては肉体的、或いは組織的な力(暴力性)を誇示する機能を求められることが少ないし、合ったとしてもそれは制服等のアイコンにより国家のものであることが求められているわけです。海外においてはまた違う事情もありますが。
さて、大阪市の問題は、入れ墨を社会のイメージする一番最低な機能である恫喝に使ってしまったことですね。つまり、アウトローアイコンであるということを示してしまった。役所がアウトローであってはなりませんから、それを排除しようとする機能が働くのは健全です。しかし、当人はともかく、他の入れ墨所持者が巻き込まれるべきなのか。
個人的価値観から言うと、アウトローアイコンと見なされるものをわざわざ担ぐのはそうあらんとしている意思表示だと思うし、ファッションって言い方は化粧、服装、髪型と同列(本人の意思によりTPOを意識することが可能なもの)と同列にしようとしているということだと理解していますがちょっと無理筋だと思うわけです。カジュアルなファッションならダメと言われればその場では消すことができるわけで、なにも問題ない。消すのが大変だから生じているとしたら、そのアイコンとしての機能を軽視していたと言わざるをえない。現に、恫喝で使う人がいるわけです。それと同一に見なされるのが不快というのはわざわざ同一と見なされるアイコンをつけて言うことではない。
であるならば、入れ墨が社会的に問題のないものになるためには、アウトローアイコンであることから脱却しないといけなくて、そのためには恫喝の機能を排除しなければならないんだけど、そのためには暴力組織に所属する人は禁止みたいな本末転倒の仕組みを作らなければならないことになります。
少なくとも現時点ではそこからの脱却は難しい。だから、公共の場では見せないということが求められるのもある程度容認すべき社会の要請と考えられます。
見えない、見せないけれどもしている、ということに意義があると思っているのであれば、していないことにするのは問題ないと思います。
基本的な考え方はそうだとして、してたら消さなきゃ首、が妥当かどうかはまた別の話。市民に相対しない職務に制限される条件付きであれば公共の福祉に反することもないし、内部で合っても恫喝したら首、でよいと思いますね。とはいえ、入れ墨をすることの意味が自分ではなく他者にとってどういう意味を持つかを考えて入れることを選択したのであれば、同じアイコンを持つ人の行為に連座することに恐怖するのはある程度は自業自得の要素はありますし、意識してないのであればまあなんというかアレですよね。