ローカルコミュニティーにおける人権格差社会

いじめについて滔々と語るのは僕にはちょっと荷が重い。のでちょっと視点を変える。
こういう事言うとアレだが、加害者だって成人していない以上、被害者である可能性があるんだよね。何のかって言うと、教育とコミュニティーの。極端な話、XX家にあらずば人にあらず、というコミュニティーの中でXX家のものとして育てられてきたら、他の子供には自分と同じ人権はないのだから、いじめでも何でもない、という話にだってなってしまう。
無論、責任がないと言っているわけではないけれども、人は本能ではなく理性の中に人権意識を持つ以上はそれを教育されないことは人権の欠如に直結するわけで。

よく、アメリカだったらただでは済まない、という話があるけれども、実際には「ただし白人に限る」だったりすることもあるよね。そのへんはかつて(場合によっては今も)宗教すら肯定していた。
日本の徳治主義の最も悪いところの上澄みが残っているような地域においては、こういった問題は起きやすいのだろう。いじめという問題として捉えてしまうとかえって矮小化してしまうのではないか、というくらいの問題かもしれない。いじめが起きること、ではなく、いじめが起きているという事実がどのように無視されてきたか、のほうが本題なんじゃないかな。まあまだ真実が明らかではない段階ではある。

学校が聖域であるのは、そういう外部要因から教育を切り離すためのものなんだと思うんだけど、学校側がそういうコミュニティーに取り込まれてしまっていると、全く意味が無い。教育委員会しかり、PTAしかり。公立学校の本来の立場から言うと、教師は地域に根ざしてはいけないのかもしれない。PTAの力をどう考えるのかも問題。

ともかく、学校の聖域性はあくまで地域コミュニティーによる歪みを排除するためのものだと考えると、こういう事件においては監督省庁が地域コミュニティーの影響を排除した調査が可能になるという点で機能すべきなんだろうな。