曽根崎心中を引き合いに出すことについて

どうもこう、隙のある言葉をさくさくと紡ぐ人が弁護士出身というのが納得行かない感じがする今日この頃ですが、よく考えたら後からいくらでも言いくるめる自信があるから普段発する言葉がいいかげんになっちゃうというのが弁護士というものなのでは、なんていう風に思ってしまった。

で。

について。これ自体はああ言えばこう言うの典型的なものです。元々はこれに対しての反応に対するツッコミ

つまり、単に価値観の問題であれば原理的にはストリップだってOKということになるし、公共良俗の観点であれば曽根崎心中もNGになる、と。まあ一種の詭弁だとは思うね。だってそこに線を引く立場である行政としては一定の「基準」が求められるべきで、それが万民によって納得行くものかどうかはさておき、原理原則の話ではない。だって「価値観の違い」こそがそれを行政が支援するかどうかの基準なんだからね。原理原則にしてしまえば、線引きができないものは全てNGとだっていえる。橋下政治の「やってみなけりゃわからないけどとにかくやる」的なものは結構それに抵触すると思うけど、橋下市長の価値判断のもとで行われているわけで。

というわけで、非常に単純な問題として、「曽根崎心中は公共良俗に違反しているか」という問題を議論してみたい。その前に、ここにもちょっと詭弁があって、歌舞伎や人形浄瑠璃が芸術かどうかということと、そこで行われる演目に問題があるかどうかは全く別の問題である。つまり、「ロミオとジュリエットがあるからイギリス小説は公共良俗に反した芸術だ」というロジックは成り立たない。曽根崎心中をわざわざ持ち出しているのはもちろん文楽がどうこうの話だと思っているよ。
さて、心中物というのは江戸時代でも問題になっている。そもそも心中自体が問題行為とされている。自殺だから、というのはもちろんそうだけど、死を美化しがちな時代の中で、「情死」というものが必要以上に美化される結果、遊廓で遊女と情死することが美化されてしまうというのはなんともかんとも、という話ではあるわけです。
これは、結局不義密通の罪人扱いされたんだけど、背景としては文化の頽廃というのももちろんあるだろうけど、果たされぬ恋みたいなある種社会批判、体制への反抗みたいな部分も問題になっている。まあ実際に曽根崎心中のせいで自殺したって人は結構いるんだけど、制約の多い社会の中ではそういう自由へのあこがれが必要以上に肥大化することはよくあること。
そういう意味では、筋が単純な自殺賛美の物語を芸術だ、と教える必要があるかというのには疑問がありますね。それに抵触する小説や映画やなにやらかにやらは沢山あります。芸術だ、と教える意味があるかというとどうだろう。
と、ここにも欺瞞的なロジックがあったりします。そもそも、物語において芸術を見出すのは話の筋であるのか。だとすれば、世に出回る小説のある程度のボリュームはシェークスピアのコピーで全く価値がない。
これは実は為政者にとっては頭の痛い問題ではあるんですよ。表現の自由を原則とするならば。
為政者としては、まさに「自殺を賛美する物語の筋」は本当は規制したい。でも「人間の心の機微や社会の問題について鋭く指摘した描写」を禁止すると現代人としての資格を失いかねない。完全自殺マニュアルを規制することくらいはできる。
という話を完全にはじめの話に還元すると、ストリップの内容が芸術的になると困るのかもしれない。

ともあれ、橋下が曽根崎心中を禁止にしたいのか、禁止にしたくないのかはわからないというか多分どうでもいいことで、単に反論のためのロジックとして今問題になっていることへのマイナス部分を絡めて(つまり、文楽を擁護する人への皮肉をついでに込めて)行っただけじゃないかと思うんだけど、だとしたら人格としては結構アレ、という評価を(今更ながら)せざるを得ないですよね〜ってお話でした。