なぜエビデンスを掴まないのか

障害だ!
原因を調査しはじめる。次第に状況がわかってくるので報告を聞く。
「たぶん、あのデータがおかしいみたいなのでこれをすると直ると思います」
たぶん?みたい?思う?
最近こう言う報告が多い。
僕たちのやっている仕事は、よっぽど複雑な部分でない限り、単にデータのインプットがあり、アウトプットがあり、それをするための何らかの処理があるだけだ。たぶん、なんて言葉はどんなに調べても辿り着かない奥底にだけ適用可能な言葉であって、まず、インプットやアウトプットという事実の部分では必要ない言葉だ。なぜデータをきちんと見ないのか。
障害調査する時はまず事象を把握し必要なら仮説を立て怪しい部分を調査する。うまく行ったデータといってないデータの相違を見つけるのは良いよ。そこから仮説を導くのも良いよ。ではなぜ、相違が「たぶん」なんだ?

仮説も立てられない人が多い中、それができることは立派だ。でも、間の前にあるエビデンスの確認を無視して見込みで物事を進めることはろくな結果を産まない。
そりゃ、今回はそれでうまくいくかもしれない。けれども、単なる結果は人を成長させない。失敗して、砂を噛むような思いをして、はじめて身に染みることなのかもしれない。失敗経験を得ることが少ない若手は可哀想だとは思う。
しかしだ。確認しろ、といった事実を確認せず、たぶん正しいであろう仮説に基づいた変更を優先するのは許さん。その変更でうまくいったのはたまたまかもしれないことを永遠に確認する術がなくなるかもしれないのに。