なぜ日本の公的な立場を持つ人達は原稿書きを用意しないのか

猪瀬都知事の英語のTweetが話題だ。英文としてなってないという指摘からそんな事言う方が恥ずかしいという指摘につながっている。

先日もLGBTの件でツイッターを騒がせた猪瀬さんだが、今度はツイートする英語がヒドいということで、日向某とかいう猫にディスられている。確かに世界有数の巨大都市の市長なのだから、誰か英語が堪能なヤツ―それこそ、この日向キャットとか―に任せればいいのにとも思う。が、とにかく気の毒である。

猪瀬さんの英語を恥ずかしがる人が恥ずかしい件 - quipped

僕は正直なところ、このことを「気の毒」とは思えない。任せればいいのにという部分にはむしろ同意したいが。

政治家がよく失言をする。選挙演説で愚にもつかない事をいったりもする。国会答弁でわかってたら絶対言わないようなことを平気で口に出す。日本の政治家やお偉いさんは「自分の言葉」とか「等身大の言葉」みたいなのが好きなようだ。これは多分日本的美徳と見做されているのであろう。日本的プレゼンテーションの極意は、「正直」であることだ。

でも、そのことは本当に効果的なのだろうか。理論についてのブレーンを集め、必要に応じて小説家やコピーライターばりの才能のある原稿書きに本文を書かせ、演出家に効果的な話し方を叩きこんでもらう。そこまでやるのは大げさかもしれないけど、もう少し「演出」ということを考えても良いんじゃないかと思う。

猪瀬都知事がアピールしたいのは自身の英語力ではないと思う。仮に自身の英語力をアピールしたくて英語のtweetをした結果として大した英語力じゃないなと批判されているのであればそりゃ自業自得というものだ。ただ、好意的に考えるととにかく世界に東京がオリンピック開催地にふさわしいことを伝えたい、という意志と解釈してあげるべき。であるならば、英語力には目を瞑ろう。でも、そこでアピール力のある言葉をきちんと使ってtweetしようと考えるべきなのが立場というものだと思う。自分でできるからいいよ、というのもありだとは思うけれども、世界の人が評価するのは「猪瀬都知事」ではなく、「東京という街とその政治力」なのであるから、日本的な(英語力は大したことがなくてもとにかく自分で発信する的)等身大アピールは全く意味が無いと思うわけだ。

日本がグローバル社会において遅れを取っているのは、英語力以前に「何をだれに伝えたいのか」を考えて、最も効果的な方法を探る、という前段の作業が欠けているからなのではないか。