「程度問題」からの脱却

体罰について肯定的な意見を持っている人は、体罰の問題を「程度問題」と考えているんだと思うけれども、多分に幻想的な考えなんじゃないかと思える。
(僕も、「生徒に手を触れるな」と思っているわけではないのではあるけど…)
いつも懐に辞表を忍ばせて授業に挑む、くらいの幻想世界でないと、なりたっていない話、つまり、程度というのは本人ではなく客観的に決められるので、多少にかかわらず体罰を行った時には犯罪者になるという覚悟をしている、という世界の話だと思う。
でも、ここで程度問題と考えている人たちは、その程度を本人が決められる、と思っているのだろう。
だから、教育現場を暴力が支配することになってしまうのだよ。

別に辞表持って望めば許されるってことじゃないよ。でも、今回の件を見るからに明らかなのは、否定的な結果に対して責任を取ることを欠片も考えていなかったということと、もっと恐ろしいことに、周囲がそれを肯定していることだ。

体罰は犯罪、やるならデコピン一発で首になるくらいの覚悟はしておけ(実際に首にできるのであればセーフティー機構にはなるだろう)、くらいの認識でないと程度問題を任意運用と勘違いする人が恐怖政治を行うことは避け得ないだろうね。