「福島放射能鼻血デマ」と「STAP細胞」と「わかってないこと」

根幹は大して変わらない話。科学的知見とはなにか。

STAP細胞の話が最初に世に出た時「科学を馬鹿にするな」と言われたという話は有名ですが、これは科学の閉鎖性を示しているエピソードではなくて、科学的知見とはなにかを端的に表している話ではあります。一方で、こういった「先人の業績」を力づくで打ち破っていくことが科学の発展の醍醐味とも言えます。
STAP細胞の件が残念だったのは、せっかく正しい方法論を選択してそこに挑んだはずだったのに、認められたいがために?禁忌を犯してしまったことですね。自分の業績のために科学を裏切ったところでろくな末路にはなりません。

てな話は鼻血デマでも同じなんですよ。

ある一定の確度で「わかっている」ことを否定するというのは大抵の場合はわかるために費やした努力をバカにしているようなもので、「100%わかってないことはわかってると言うべきではない」なんて言い出す必要がある人はまず自分の実在から疑うべきだと思うんですよね。自分の人生がそこらのゴキブリが見ている夢でないことをどうやって証明するんでしょ。

急激に大量の放射線を浴びると出血しやすくなるというのはもちろん「わかっている」ことなんですが、それと同じくらいの確度で「福島で鼻血出しているのは放射線が原因ではない」というのも「わかっている」ことなので、後者を単に「100%わかってない」で否定するのであれば前者も否定可能なんですよね。もっとも事例は見つけにくそう。
とはいえ、後者を否定することは案外簡単で、十分に確からしいことを証明できるデータが有れば良いんですよね。幸いと言っては不謹慎ですが、今、データ源はたくさんあるわけです。科学(というか疫学)の方法に則った調査を行うことで「常識的知見」をひっくり返すことは十分可能です。

「100%以外否定論者」が陥りがちなのはこういう「常識的知見」を過度に疑うことです。そりゃ常識は往々にして間違っていますよ。でも過去常識を積み上げてきたのも、その間違いを証明してきたのも科学であり、疫学であり、人間の努力なんですよ。

まあなんかクライシス小説みたいなのだと、「今そこにある危機」を甘く見てきた「常識側」の人間が後悔するような結末になりがちではあります。頑迷固陋な人間が持論と心中して破滅していくさまにはある種のカタルシスがあるのは確かですが、現実的には映画「Mist」の結末みたいなオチになりがちだし、起きている事を正しく評価できないだろう人間の直感を信じるよりは信念に殉じたほうが人間らしいなーという思いもありますなあ。