「格差社会の原因」エントリについて(6)

muffdiving氏のエントリはいつも読ませていただいて、大変核心を突いてくると思っており、当方の駄エントリに言及いただけるのは恐縮です。罵倒されてなくてほっとしつつ。

個性とか趣味とか言ってる以前に、頑張っても食うことすらままならねえこともあるという状況が問題なんじゃねえの?

http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070825/1188066823

そうですよね。

ホントにズンドコの貧乏に落ちてしまった奴に対して、生活保護の支給以前に申請ではねられてしまう水際作戦なんざその典型ってなわけで。富の再分配にしても、経団連あたりの金持ちジジイ倶楽部がテメエの愛人にばら撒く銭をこしらえたいがために再分配をためらってるわけで。
その辺なんとかしないとマジでやばいんじゃないかと。
「個人の頑張り云々」ってのは、あくまでも社会の責任を個人の責任に回帰させることのできるマジックワードになるわけで、格差論じるのに使ってもらいたくねえと思うんですね。

http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070825/1188066823

僕がみんなの反応を見て思ったのは、「格差」と言う言葉を使ったのがそもそもまずかったかな、ということですね。僕は今の世の中がこうなっている原因は個人の責任の部分も社会の責任の部分もどちらもあって、まあどちらが重いかと言い出すとこれは難しいと思うのですが、どちらかだけをみて語れるような問題ではないですものね。そこのところは、よくわかりました。

じゃあどうするべきかって話だが、まず必要なことは、セーフティーネットの修繕が先だろうと。生活保護の水際作戦を完全に違法とし、まともに支給できる環境に戻す一方、いわゆる不正受給についてはかなり厳格な処置を取るとかね。例えば、暴力団関係者であれば、堅気になって数年経たなきゃ支給しないとか、他の支援受けてる人については収入に他の社会支援分を含めて計算し直すとかね。

http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070825/1188066823

これも結構難しい話ですよね。例えば、足抜けすると暮らしていけないから一生ヤクザのままとかいう問題も出かねない。本来であれば、多少の不正は前提において、末端に行き渡らせなければならないけれど、そうすると今度は「俺たちの税金を無駄にするな」的な声が上がる。こういうのってろくに払ってない人ほど声が大きかったりしてね。

少なくとも、格差問題って、「個人の頑張りでなんとかなる」で済まされる問題じゃねえと思うんだけどな。逆にそれが、洒落にならねえ格差を広げるお題目になってるってことぐらい気づけっていうか。この手の問題に「個人の頑張り」を持ち出すのは、逆に政府の無策による格差を肯定化するためのお題目になってるってことに気づかなきゃ話にならねえと思うけどな。

http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070825/1188066823

僕は、今の人たちの「頑張り」を解決策にすることはできないとは思っています。結果論としてですが、民主主義的一票の重さを舐めてたツケが周ってきているような気がしています。年金問題然り、医療問題然り。猛烈に成長してきた経済が立ち止まるのと、自由がもてはやされるのが重なった辺りから、おかしさが加速したようにも。ちょっと考えがまとまっていませんが。
相対的な基準としての格差はおいといて、絶対的な基準としての最低限暮らしていけるライン、ここをどう押さえるか。ここもまた、格差の話ではないのかもしれません。あるいは、どのようにしてそのラインを超えるか、ということそのものが、まず格差なのかも知れない。それと、過剰な財産を持つものとそうでないものの格差とはまた別の話なのでしょう。僕のあれだけの短いエントリにもそのいくつかの見かたでのコメントが寄せられているように思っています。だから、難しい話です。
なんとなく、フォローしていただいたような気がしています。言及ありがとうございました。

どこまでが東京か

僕は母親の実家生まれだけど、東京でずっと育ったから、まあ東京生まれの東京育ちですね。しかし、練馬。練馬は第三学区(中野杉並練馬)の中でもネタ的に下に見られていて。曰く、埼玉に飛び地があるじゃんと。確かにあるんです、飛び地。アレ一体なんなんでしょうね。

母が東京生まれで、父は養子だったので私は生まれる直前まで東京にいたんですよ、母のお腹の中で。それが事情があって、江戸川を渡ってしまった。私を産んでから江戸川を渡ってほしかったですよ。
〜中略〜
東京の人は意外に質素で素朴だと思う。世田谷の商店会のおじさんとか、田舎のおじさんとメンタリティは変わりなく感じた。今は知らないけれど。
他人に無関心であるとか、流行りモノに敏感であるとか、そういうのは移り住んだ人が持ち込んだ感覚だと思う。他人に無関心なのではなくプライバシーに触れないのあって、流行りモノはごく普通にそこらへんにあるものを使っているに過ぎないのだ。
そんなのがすごく魅力的で、母の故郷の東京の路地裏で生まれ育ちたかったと思う。

http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070829/1188351535

僕には、どこまでが東京か、と言うことがあまり感覚としてよくわからない。江戸川越えたくらいだったら東京じゃない、とか。ディズニーランドは東京じゃないのか。とか。奥多摩は東京なのか。山手線に20分圏内であれば埼玉だろうが千葉だろうが神奈川だろうが(こっちは横浜にプライドがあったりして複雑ですが)「東京のほう」、なんじゃないかと思ったりします。僕にとっては町といえば池袋なんだけど、そういう意味では保谷やひばりが丘の北の方に住んでたり、朝霞や志木に住んでたりする人と変わりがあるのかどうか。
もし、東京が他と違うとしたら、「狭い」という点かも知れない。密度が高いと言うか。密度が高いゆえに、広く関係するのが難しい。同じ駅を使う町であっても、普段使わない道を通るだけでも感じるアウェイ感。常に見知らぬ他人に見られると言う感覚、それがあるがゆえに、何事にも敏感であるのかも知れない。見られると言うのは知られると言うのと全然違って、田舎のそれは知られるほうだと思うし、活動範囲のほぼ全域に知られることができる。知られると遠慮とか緊張は少なくなる。あるいは、別の身構え方をするのだと思う。そうは言ってもそこまでの田舎は首都圏にはなかなかないと思うけれど、あるいは、井戸端会議で伝わる範囲、と言い換えてもいいのかもしれない。
町に出るときの感覚はその際たるものかも知れないです。が、町に出るときだけその感覚を働かせることと、常にその感覚を働かせることの違いはある。そして、ずっと(戦前から)住んでいる人にはその感覚はもしかしたらないかもしれない。杉並とか、練馬とか、十分田舎ですから、当時は。様々なところから人が写り住んで作った町だからこそ、そういった緊張感に満ちているのかも知れないし、それが度を越えなければ心地よいのかも知れないですね。

コメントスクラムであるという点について支持してもこれは認めん。

こんな放火魔みたいなエントリ書いて他人のことをコメントスクラムネットイナゴだと良く言えたものです。

光市母子殺害事件の弁護人に対するバッシングにせよ、「医療崩壊だ!」コメントスクラムにせよ、匿名さんが現実社会の人間を叩くという側面があるので、「匿名さんが現実社会の人間を悪し様に罵ること」をネットの本質と考えている方々が何とかこれをかばおうとするのは傾向として予測できなくはないのですが、そのことのもたらす弊害にも配慮して欲しいものです。

弁護士バッシングと「法の支配」の終焉: la_causette

何回でも問うけれど、「匿名さんが現実社会の人間を悪し様に罵ること」をネットの本質と考えている方々って一体誰のことだ。そういう人がいること自体は確かだけれども、自分に向けられた批判が全てその手の人からだと思っているのですか。

医療と訴訟の先に

小倉先生経由で知ったのだけど、某弁護士のブログが小倉先生曰くの医療従事者によるコメントスクラムに襲われているらしい。

訴訟があるから医師が減るという事実から目を背ける積もりはない。しかし、訴訟を減らす努力は、訴訟した人たちを、バッシングすることであってはならないと思う。もっと他に方法が有るはずである。
本当に気の毒な事案があるのも事実なのである。
コメントを送ってこられた方たちは、一生懸命頑張っておられる人たちなのだろう。しかし、杜撰な医療行為をしている医者や病院があるのも事実なのである。そういうところで発生した医療過誤について、被害者は、どうすればよいのだろうか?杜撰な医療をしている病院や医師はまったくいないと言い切れると考えておられるのだろうか?

http://machiben-nikki.at.webry.info/200708/article_1.html

通常の業務をしているだけでいつ犯罪者にされるかわからないという今の医療の現場に対して、こういった意見は非常に非現実的なのかも知れない。けれども、確かに寄せられたコメントは、特に最初の方は頭ごなしに否定するような、あまり品の良くない書き方のコメントが多くて、コメントスクラム呼ばわりされても仕方のない部分があると思う。こういった意見は、医療業界の自浄作用をどのくらい期待して良いかわからない患者側としては気になる話ではある。一方で、法曹業界の自浄作用に対して否定的な発言をするのであれば、尚更、自らには自浄作用があるなどと誇るような発言は出来まいと僕なんかは思ってしまうのだけれども。
ただ、医療が過剰な結果を求める患者や、間違った社会正義を求める報道によって崩壊に追い込まれているという現状は、直接対決する可能性がある職業の従事者としては意識しなければならないだろうと思う。
で、本題はそこではないのだけれども、小倉先生、このコメントスクラムに噛み付く。例によって無駄な議論かも知れないけれど、医療が崩壊したら困る立場として、触れてみたい。

しかも、この種の「医療崩壊だ!」系のコメントスクラムが押しつけたがっていることというのは、「医師に対して医療過誤訴訟を提起することはけしからん」という話なので、他人のブログのコメント欄で騒いでも解決する話ではありません。いくら騒いでも、医療過誤訴訟を提起して勝訴した弁護士に対して弁護士会が「医師を訴えるとはけしからん」といって懲戒処分を下すことはあり得ない(それって、別に弁護士会の懲戒手続きが形骸化しているからとかって話ではないです。)し、「医療崩壊を招くから」という理由で医療過誤訴訟の受任を拒否しようという動きが各単位会ないし日弁連レベルで行われることもないです(個々の弁護士レベルでも、おそらく広がらないでしょう。)。医療過誤訴訟で勝訴した弁護士が、全国の医師に対して、「医療過誤訴訟を提起し、あまつさえ勝訴すらしてしまい、申し訳ありません」と謝罪するというのは変な話すぎます。

「医療崩壊だ!」系コメントスクラム: la_causette

確かに脅迫的言動と感じる部分はありますね。医者訴えたら医療崩壊するかも知れないけれど、それでいいの?という。どこかのコメントでも書きましたが、基本的には患者のモラルというか、現実についてのある程度の諦めを要求する*1のが本道で、ルールの問題に還元されてはならないと思います。ルールの部分は原則論として残しておかなければならず、それを使うか否かについてを。弁護士にそのモラルの担い手になれ、というのは無理難題です。だって殺人犯でも本人が無罪と言ったら無罪を勝ち取る弁護をしなければならないのが弁護士の仕事ですからね。そういう観点では、このエントリは正しい。しかし次のエントリは…

とりあえずの目安としては、医師賠償責任保険の保険料を見るのがよいでしょう。1件あたりの賠償額が高かったり、国民が医師を訴えることに躊躇せずかつ裁判官(国によっては陪審員)も医師に賠償責任を広く認める社会では保険料は高額となり、そうではない国では保険料は低額となるからです。そして、医師や病院は、医療過誤訴訟で敗訴しても、医師陪責保険に加入している限り、ごくわずかな免責金額を負担するだけで、それ以上の金銭の出捐を要しないのが通常だからです。

医療過誤訴訟システムによる医師の経済的負担はどの程度か: la_causette

今、問題にされているのは、訴えられると、刑事責任を問われるという現状でもあります。それは保険でもカバーできません。まあそれはおいておいても、訴えられる件数が増えると、保険料が高額になる、ということが認められているのであれば、今後、高額になることが予想されると言うことですよね。
保険でカバーするもう一つの問題は、「保険でまかなえるからいーや」と諦めてしまうことですが、それはまた別の問題。
さらに。

むしろ、「多くの勤務医」が、「連続36時間勤務,深夜勤務の翌日も休みなし,といったハードな勤務で労働基準法の基準を遥かに超えて働いてい」る状況を改善する方向で「医師のモチベーション」を維持するのが本筋のように思います。といいますか、勤務先に「労働基準法を守れ」といえない鬱憤を、医療過誤訴訟を提起した患者やその家族、医療過誤訴訟を受任した弁護士や認容判決を下した裁判官に向けられても、何一つ建設的な話には繋がらないように思えてなりません。

患者や弁護士や裁判所を攻撃しても労働環境は改善しない: la_causette

実に正論です。改善しようにも改善されないと言う問題はさておき。言えない原因の一つが「患者が待っている」からであることはさておき。診療拒否をしたら訴えられることはさておき。責任転嫁はいけません。弁護士はともかく、医療知識のないとんちんかんな判決を下す裁判官は責められてしかるべきだとは個人的には思いますが。しかし。

それとも、「ミスを犯して人を死に至らしめても一切責任をとらなくとも良い」特権さえ手に入れば、「連続36時間勤務,深夜勤務の翌日も休みなし,といったハードな勤務で労働基準法の基準を遥かに超えて働いてい」る状況は改善されなくとも構わないということなのでしょうか。

患者や弁護士や裁判所を攻撃しても労働環境は改善しない: la_causette

こういう言は、いけません。皮肉にもなってない。引用元の人は、勤務の点ですら限界であるのに、さらにミスでもないことに対して裁判を起こされちゃかなわん、と言っているわけで。逆に言うと、こちらが悪くないのに起こされてしまう(そして、悪くないのに有罪になる)裁判がなければ、死ぬほど忙しいのには医者の矜持として目をつぶる部分がなくはないよ、ということを言っているようにも思えます。そこについては労働環境の悪化だけでも医療が崩壊すると僕は思いますけれどもね。
そして。

保険診療なんて安価な診療報酬しか支払わない患者を死に至らしめたとしても、わざとでない限り、如何に そのミスが重大なものであろうとも、一切の責任を負わない」ということでなければ、医師など続けていられないという方々には、「残念ですが、そこまで仰られるのであれば、仕方がありません。どうぞ他の職業でご活躍ください」という他ないというのが正直なところでしょう。如何に医師が少なくなろうとも、「病気を治してくれとはいいませんし、わざとでさえなければ、やっつけ仕事で命を奪っていただいても本望ですので、どうぞ診療して下さいませ」などと患者やその家族が懇願するという事態は、私には想像できません。

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2007/08/post_63b4.html

ここに到って、こんな言い方をしても仕方がないと思うのです。「如何に そのミスが重大なものであろうとも、一切の責任を負わない」なんてこと誰も言っていないのですが、拡大解釈するとそう取れなくもない。だからと言ってこういうツッコミをするのは誰のためなのか。全く意味がないと思います。そして後者の想像については、僕もできませんが、違う想像なら現実的だと思っています。何かというと、金持ちしか受診できない未来。医師が少なくなると資本主義社会としては当然起こることだと思います。
そんなわけで、確かに正論だと思うのですが、わざとらしい曲解をするよりも、弁護士も一つのモラルの担い手として、医療に貢献する道を一緒に探ると言うのが社会的地位をある程度備えた職業人にそうでない人たちが求めることだと思うのですね。医者然り、弁護士然り、公認会計士しかり。
もうちょっと、お互いに、なんとかなりませんか?

*1:と言うのは本来世論としてのメディアの役割であるはずですが、現状逆に機能していますよね