橋下府知事、早くもブーメラン合戦へ参戦

こういう論法を使い出すってのは都合の悪いことを否定できない苦し紛れである、ということは世に普く知れ渡っているというのに、早くも使い始めたようです。

さらにアナウンサーが財政再建策にからみ、人件費削減の具体策についてしつこく質問すると、「決まっていた予算を数日でひっくり返し、検討しているので、そこまで言及できない」と不快感をあらわに。
 「NHKのインサイダー問題だって(内部調査に)どれだけかかってるんですか」と、今年1月に発覚したNHK記者らのインサイダー取引問題を引き合いに出し、やり返した。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/121509

どうも、人望を失って破綻しそうなパターンにはまりつつあるように見えます。

「自分はそんなに酷いことを思っていないし、ニセ科学に毒されていない」というアピールVS「正しい批判ではない」という批判

羊水が腐るという表現が事実として誤りであって、また、比喩的表現にしてもあまりに他者に配慮していない、公共の電波で流すには問題がある発言であった、という事に対して何故過剰な反応が起こるのか。
高齢出産はリスクが大きい、ということについて、死ぬ死ぬ詐欺問題のときに、散々親に「リスクを考えないバカ親が自分の楽しみの為に云々」と批判されていた事実と、ここでの発言を非難するという事は完全に矛盾していると僕は感じてしまう。であれば、単純に「そんな言いかたってないよな」的な動機でのバッシングであるか。バッシングしている主体が違うのかも知れないけれども。当事者としてではなく、他人事のように言ったことが問題なのかも知れない。
本来であれば、あの発言に便乗して更なる高齢出産に対するバッシングが出てきても良いのだけれども、そうでなかった、ということは、初めからあんまり好きでなかった対象に対して、失言に便乗して叩いているだけなのかもしれない。でも、表現の酷さについての許容量を越えてしまったときにそれを叩くことで自分の見識なり、科学的知識が常識的であることを確認しているのではないか、そう思う。死ぬ死ぬ詐欺問題にしても、高齢出産そのものではなく、そのリスクを知りながら、その結果を他人に依存して助けてもらおう、という態度が非難されていたのであれば、矛盾は生じない。結局のところ、叩かれているのは失言したものが感じていること、考えたことそものもの批判ではなく、態度に対する非難だということだろう。それが、自らの規範意識をアピールすることに繋がっているのではないか。
一方で、批判そのものが正しくない、という意見がある。失言は謝れば良く、過剰なバッシングだ、スポンサーに電話するとかやりすぎ、等。ゴメンで済んだら楽でよいんだけど、バッシングの原因が規範意識(それが正しいかどうかはおいておく)である限り、そこに合致するような謝罪でないと意味を成さない。これは結構難しい話かもしれない。それぞれの意識は異なるから、まあ、大多数を占める意見に迎合しておけばよいのだけれども。
ただ、バッシングを批判する、という行為もある意味では、規範意識から出たバッシングの連鎖に過ぎないわけであることはある。「俺はいじめは良くないと思うよ」と捉えることは、原因を分析する意図はなく、ただ行為のみをして批判するという点ではまあ、あんまり元のバッシングと変わらないかもしれない。
発言そのものを擁護するでもなく、バッシングの行為を批判するのはどうもすっきりとしない。

ムラができるのは外圧が原因

これだとちょっと単純化が過ぎるか。ただ、
ムラがあるように見える⇒何がしかの力⇒ムラが生成される
という関係性は多分それなりにあるんじゃないかと思ったりはします。最初の「見える」ってのは、行動が多く実績として積みあがったときに、何らかの傾向が見られるってのは至極当然のことで、それは少なくとも何がしかの指向性を持って集まっているわけだから、それは分析してしまえばたとえ緩いものでもある程度の「傾向」として指し示すことができるわけです。もちろん、それは個々人の指向とは直接関係がないものです。が、遠くから眺めるとなんとなくってのはあるし、中には密接に結びついた活動をしている人々もいるわけだから、その人と、全然関係ない人とが、同じ土地にいるってだけで、そういう傾向を持つ、ってのは乱暴な決め付けだけれども、統計の母数になるって言う意味ではまったく関係ないわけじゃない。
で、そこに力が働くのだけど、それが何かってのはよくわからない。藁人形を作ってなで斬りってのもある種の力であるし、直接の関係は必要ないかもしれない。内部からの力もあるかもしれない。これを外圧というのもなんだけど、きっかけは外からの何かなんだろうなあと思って見たりします。
うーん、どうもどうでもいい事を考えすぎだな。みんなが宣言していない以上ムラなんかない、ってのが一番単純でよいな。

規制は別に良いと思うけれども

児童ポルノの単純所持を諸外国の基準に合わせて違法にしましょうってのはまあそれなりに妥当だとは思うのです。
例えば親戚の姪っ子の入浴写真を親バカな兄弟がメールしてきた、とかで捕まったらアホらしいし、自分の家族を撮った写真に写り込んだ他人のせいで捕まったりもバカらしいし、規制の厳しい諸外国でも状況によっては幼女全裸とか普通にあるらしい(http://blog.ptlabo.net/index.php?id=07060041のコメントより)し、大体日本人は若く見えるから成人してても児童ポルノに見えるとか、そんな話もありますが、その辺は何がポルノでどこまでで線を引くのか、という問題です。明確に線を引くとそりゃあ線を引かれてないところは合法、みたいな話にもなってしまいますから、ポルノであるかどうか、を例えば警察の判断に委ねる、というのは現在の別件逮捕とか自白強要とか、そういう話が続く日本ではキモチワルイのは確かですけれども、上記に上げたようなケースで明らかに犯罪性が認められないようなものまで検挙される、あるいは、別件の操作でたまたま見つかっちゃった、みたいなのでなければ、態々「児童ポルノの点検に来ましたー」みたいなことをするわけでもあるまいし、この先に増やさないための施策である、つまり、購入の抑制である、といえなくもないと思うわけです。じゃあ、購入行為を違法にしたら、と思わなくもないわけですが。
こないだの、著作権侵害でウイルス作者が逮捕されたときに感じた危惧というのは、しかし、こういった単純所持は犯罪、とか著作物の違法ダウンロードは犯罪、とか、ある程度主観を要する犯罪認定(もちろん、厳密に言えば全部違法であっても、大抵は精々徒歩での信号無視レベルであるもの)を別の目的で身柄を拘束するために使われちゃあかなわんよな、とか、キャッシュに釣り的リンクに引っかかって来訪したウェブサイトの画像くらいはあるかもしれないし、そこに特段の意図が働かないものをもって理由にされるのはなんだかアンフェアというか、いや、まあ一点の曇りもない正義を実現するのであればそれでもよいけど、どうもね、っていう感想が出てきちゃう。これは、児童ポルノ容認なんじゃなくて、今まで持っててOKだったものがNGになることで、どうも最近信用度が下がってきたような気がする警察に変な権力を与えてないか、という不安なんだよなあ、と思うわけです。
実際には、例えば、覚醒剤だって昔は合法だった、とか、他のドラッグにしてもそうだけど、合法⇒違法になるものは山ほどあって、心当たりがあれば廃棄すれば良いっていう話だし、そのこと自体に抵抗を覚えるのはどうもあれなんだけど。もっとも、例えば合法エロ画像にほんのちょっと紛れちゃった、とか、そういうのまで犯罪者認定していたらキリがないし、まあどうするつもりなのかわからないけど。
ただ、二次元はどうなの、とか、写真と区別の付かない二次元もあるよ、とか、小説なんかも小児性愛を煽ってるものがない?とか、そういう議論の部分はそもそも議論されること自体が間違っていて、現実と想像の区別が付かない犯罪者が、そういう外部の刺激を受けて犯罪に到る、ってのはない話ではないけれど、それ言ったら描かれる対象が大人だったら良いのかとか、まあ、対象が子供=力が弱いから犯罪に巻き込まれやすい、という発想なのかもしれないけれども、そこは社会の安全性の問題のような気もするし、どうだろう。
虐待される児童(とそれで稼ぐ犯罪組織)をなくそう、という目的を果たすためにのみ、運用されるんであれば、問題はないと思うので、是非アホな方向の議論をせず、別の規制を紛れ込ませようとせず、やって欲しいものです。