罵倒や揶揄に順序もレベルもへったくれもあるものか!

罵倒や揶揄やその他の明らかなネガティブワードには相対性はない。絶対的なものだ。そこに相対性を認めるとしたら、それは発した側の評価ではなく、受け取った側の評価であり、発するほうがそこにはじめから相対的な価値を置くこと自体がナンセンスであると言えよう。
また、ボーダーライン的な言葉に対して、ネガティブに受け止められたとき、本当にそこにネガティブな意思がなかったときにまず反省すべきなのは文脈が明らかでない状況でどちらにも受け止められる言葉を発した自分の行為に対してであり、相手が誤解したのであれば正せばよい。
罵倒に対して罵倒で返す。こちらが後の側だからその罵倒は正当化されるのか。そうではない。罵倒は罵倒であり、ただ罵倒をしたという事実のみが重要である。その罵倒が正当であり、また自らの意見の表明であるならば、それは順序性や相対性には全く関係ない*1
同様に、「あっちの方がより酷いことを言った」というような内容の相対化についても全く意味がない。
以上のことは、感情というファクターを排除した上での話であり、実際には罵倒や揶揄が最も影響を与えるのがそれであるから、このことは常にそうすべき、という提案ではない。感情によって議論ではなく喧嘩に発展するのであればそれはまた言葉を述べることの一つの帰結であり、なんら否定されるものではない。
けれども、あくまで冷静沈着な議論を展開しようと言う風に見える文章の中でもネガティブワードの相対化を試みていることが普通に見られる。
冷静であることはネガティブワードの絶対的な(負の)価値に対する免罪符にはなりえず、常にそれに対して自覚的でなくてはならない。絶対的な価値に対する誤解が発生したら一度は自分の側の問題であるかどうかを検討しなければならない。
もし罵倒や揶揄について他人から身に覚えのない批判があったとしたら、まずは自ら無自覚に行っていないかを検証してみたほうがよいのではないだろうか。

*1:相手が罵倒したという行為が自分が罵倒するに値する行為であり、その判断基準により罵倒を開始した、というのは正当な判断であり、またその場合の相手の罵倒は「罵倒その他の自分の判断基準を超える」ものの数多くある中のひとつに過ぎない。罵倒されたから罵倒した、というのは事実としてはそうであるかもしれないが、本質的には順序や相対価値の問題ではない