批判されることに対する態度について

例えば、僕がここで仕事について愚痴を書いたとすると、その目的はなんだろうか。直接の人間関係がなく、ある程度内容を知らない人たちに愚痴を聞いてもらいたい?それなら全世界に発信するほどのことではないし、もう少し相応しい場があるだろう*1。であれば、きっと、愚痴の内容について、こちら側に(100%ではないけれども)正当性があることを確認したい、確認することで溜飲を下げたい、という意図があるはずだ。そういう意図がある以上、正しさの判定を求めているわけだから、その正しいと考えていることについての批判も当然発生するわけだ。ぽつりと、独り言をこぼす。でもその独り言には「誰か聞いてよ」っていう気持ちが込められて無いだろうか。そんなことはない?ならば日記帳に書けばよいのだし。
あるいは、自分の専門家的主張を専門家的な態度で表明する。批判は堂々と受けて立つ。専門家なのだから。しばし、壮大なバトルになることだろう。専門家同士の見解の相違による戦いは、その思想の根源まで遡って批判合戦になることが有る。そして、その根源において、専門家でいられない可能性もあるだろう。そのときに別のその問題に対する専門家が登場するのは無粋ではあるかもしれない。少なくとも、学会という範囲内では登場しづらいだろう。別分野だから。でもここはウェブだから。
あるいは、自分の非専門分野についての意見の表明を批判される。それは仕方が無い。
こういった様々な意見の表明についての様々な批判に対して、どういう態度をとるのかが、その人がウェブ人格として−あるいは実人格の表象としての何かを実名で書いているのであれば実人格として−ウェブに何を求めているかの証左となりうる。ところが、ウェブの発信者に対して読者が思うことは、その読者自身がウェブに対してどういう態度で臨んでいるかに左右される。一度発信してしまったら、それをどう受け取るかは読み手の問題となる。既存メディアは、そこからの双方向性が非常に薄い。投書でもするしかない。あるいは、そういう立場を持っていれば、反論を寄稿するような。
ウェブが双方向メディアだ、ということは当たり前の概念と言ってよいと思うのだけれども、その一方で、従来のメディアでは発信できなかったことが発信される場でもある。エディターの手を介さない、あるいはコネや財力に依存しない、誰にでも開かれたメディア。ついつい、自分の都合の言い分だけを見てウェブはこうでなければならないと思いがちなのだけれども、この二つのメディアとしての特徴は不可分なものであり、たとえGoogleが巨大なフィルターとして機能したとしても今のシステムのままではそこは変わることが無いと思う。不可分である以上、その特徴をどう捉えるかはどうしても読み手(利用者と言っても良い)に依存する。
であるならば、発信者にとって、現在のウェブは批判があることを前提にして臨むべきメディアであって、批判されることそのものについては非難のしようが無いはずだ。その後にどういう態度で批判に相対するかは発信者自身のスタンスでよい。しかし、専門家然としているのであれば、ウェブという公開討論的な場において、批判に対しての適切な対応が「されなかった」ことが観客にどう見えるか、ということに対して無関心ではいられないはずなのだと思うのだけど。

*1:確実に慰めてくれるのがわかってくれる人に言えと