主張の強度と応答可能性

「〜すべき」「〜でなければならない」「〜は間違っている」「〜が正しい」という意見は、強い主張であり、何らかの根拠を示すことなく行うことは難しい。それがファクトの積み重ねであっても、最終的に整合性の取れた理論化ができない限り、万人からその意見の正当性が認められることはなかなかあることではない。ただ、理論そのものが強固に構築されていたり、特定の知識を前提として必要とする難解なものであったりする場合、理論に対する反論をその素養が無い人がすることも難しい。だから、わかりやすいところとしてのファクトに対する反論を行うことになる。
一方、「〜かもしれない」「〜と思う」「〜の方がよい」「〜ではないだろうか」的な、断定的ではない意見*1は理論そのものが脆弱であるから、理論そのものについての反論が多く生まれる傾向があるように思われる。
前者において提示されているのは、多くの場合、理論であり、その証拠である。また、後者において提示されているのは、大抵は仮説や単なる思いつきであり、その証拠である。
ところが、前者において、その主張が単なる仮説に過ぎないとき、その主張の仕方の強度と内容の強度のアンマッチが発生する。主張に対する反論の強度は、主張の強度に比例するとしたら、主張の強度が内容の強度を上回ったとき、反論の強度は内容の強度を上回る。そこで論者が主張の強度を下げるか、内容の強度を上げない限り、論争の展開は泥沼の様相を呈することは目に見えている。
となると、反論に対する応答可能性というのは、論者が主張と内容の強度のバランスをとれる人物かどうかにかかってくるようにも思える。強度のアンマッチに気付くことなく、脆弱な内容(根拠)で主張を繰り返したり、指摘された内容を検証せずにスルーすると言うのは反論に応答しているとは言えないのではないだろうか。

*1:つまり、このエントリのような