熱く議論することについて適当に考える

別に熱くやっているつもりは無いのかもしれないけれど、かみ合わない応答が繰り返されることは口調とかを全部差っぴいて客観的に見たときに無駄に熱いよなあって思うんですよ。で、それが何かがずれていてかみ合わないならともかく、前提が違っていて、お互いそれをわかっていたりしてね。

不毛な議論にしかならないとわかっていながらだけどそれでも何かが掴めるかもしれないと議論を尽くしてる人もいるんじゃないのかと思う。

だけどそれでも - CROOK

うん、だから、お互いが理解できないことをなんとか理解してもらいたい為に死力を尽くすような熱さは僕は好きだ。あるいは、自分の考えを自分の考えとしてのみ照射するようなのも。
A「俺はこう思う」
B「でも俺はこういう考えだからこれはこうじゃないか
A「でも俺の考えからするとやっぱりこうだ」
B「その点については俺の考えからするとこうでなければならない」
ってのは、全然分かり合うつもりも無いし、議論もしてないんだよね。相手の主張について、自分は受け入れられないけれど、一定の価値を認めているとしたら、二度目の応答以降はほとんど意味が無いように思う。ループしているだけ。この際「お前の考えは、間違っている」「俺の考えのほうが明らかに正しい」というような主張でなければ全然熱くなる意味無いんだよ。単なる意見交換だもの。
はてブにコメントをもらいましたがイマイチピンと来なかったので応答

# kameda007 価値観ではなく、認知のちがい。どう認知してるかということ。その認知の仕方が同じ人同士がくっつくだけ。正しいか、正しくないかは別問題。二元論的な思考の人はくっつきやすいでしょう。白か黒か50%の確率で。

はてなブックマーク - 罵倒とか裁きとか、言行不一致とか一貫性とか、そんなに熱くなることかね - novtan別館

認知ってのは物事をどう捉えるかってことを言っているのだと思うのですけれど、相手に同じ認知をするための何かを据付ようとすること以外に議論する必要性ってあるのだろうか。正しい、正しくないってのはルールという言葉を使ったことによって出てきた便宜上の対立概念だからあんまり意味ないです。