ニセ科学への関心は役に立つか

仕事をしていていつも疑問で仕方が無いことがある。一部の人たちは、ある一つのことを学んだときに、その概念を理解せず、知識としてしか身に付けない。ほんのちょっとだけパラメータが変わっただけで、全てが違うものと認識し、また新たに学習する。
「ここのロジックをどうすればよいかわからない」
「え、それこの前のあれとほとんど一緒じゃん。ここをちょっと変えるだけだよね」
「あーそうかー、わからなかったなあ」
という会話は一見、気付きの問題に見えるけれどもそうではない。汎化という論理構造を持っていないのではないかと思われる。オブジェクト指向言語が世に出て久しいのに糞コードが量産されるのもこれに類する問題だろう。ちょっと話は違うけど、「コピペでよい」というのは状況依存的発想としては必ずしも間違いではないけれども、本来受け入れるのに歯を食いしばって我慢するほどの行為であるはずだ。
知識をセオリーとして定着させることの出来ない人はそれなりにいて、そういう人は、一つ一つの知識を別個の物としてしか捉えられない。だから

会場には昨年の倍の約230人が集まり、ほぼ満席の盛況。主催者の一人、同志社女子大左巻健男教授は「『発掘!あるある大事典2』の捏造(ねつぞう)や『ナントカ還元水』が話題になり、関心が高まったのでは」と話した。

http://www.asahi.com/life/update/0707/TKY200707070413.html

この盛況さ加減がどこまで有用なのか。どんなに感度のいいアンテナが立っていてストレージの容量が十分であっても、それを統合する科学的思考がなければなんの意味も無い。もしかしたらトンデモが科学的に証明されてトンデモでなくなる瞬間においても「あれは科学的じゃないはず」と評価してしまうかも知れない。参加者の人には個別の事例ではなく、汎用的な考え方として定着していることを願ってやまない。