Webで書くことについて(5) もう一度、集合知について

一つわかっている確かなこと。何がシグナルで何がノイズかは人によって違う。既存のメディアが、あるいは学術論文が、学会が、自分たちに不都合なことを様々な言い訳をして潰してきたと言う話が100%ありえないことであれば、既存の勢力と言うのは信じるに足り、我々はそのある程度統制された社会で生きていくのが幸せなのかも知れない。愚者が危険な道具を手にすることは、人類全体の利益にはならず、愚民化政策を用いたとしても、それが種としての長期的な利益に適っているのであれば、間違いではないかもしれない。そういった立場で言うと、現在のWebは、安全装置の無い重火器が誰でも触れるように放置されていると言う状態であるという認識をすることもおかしい話ではない。
しかし、既存勢力に属さないことがすなわち愚かなことを意味するわけではない。既存勢力の誤りを正すことが出来るのは、そこに属さない市井の賢者である。かつて、情報が十分に行き渡らない時代、一方の真実としての反権力的思想は一地域で醸成され、弾け飛ぶことができた。それは嘘でも良いから丸め込む的な体制側の情報も伝達されてこなかったかも知れない。もちろん、これも一つの勢力争いであって、立場の争いであって、どちらが正しいかは定かではないかも知れない。
さて、もう一度集合知について。先に述べたように、何がシグナルで何がノイズなのかは、立場によっても違う。小倉先生が言うような「大衆による評価によるノイズを制御しようとするシステム」は事実誤認であり、Googleのようなものは、「自分にとっての」シグナルを拾い上げるためのシステムであり、ノイズに埋もれていようが無理やり引き上げることが出来るシステムであり、悪の勢力がノイズの山を作ることについての容易性を過大評価しているに過ぎないと思える。匿名で誹謗中傷するようなくだらないコンテンツがなぜノイズになるのか僕にはわからない。誹謗中傷の中に真実を見つけるのが目的で無い限り、誹謗中傷ワードを間引いてしまえば知の草原が広がるばかりであるとしか思えない。どんなにノイズが大量になっても、毛ほどのシグナルさえ残っているのであれば、ノイズしか残らない、ということはありえない。「集合知系のサイト」などという言葉こそ集合知が何を意味しているのかを見誤っている。誰かの選択によって集まっていることが集合知なのではなく、全体の集合の中から見つけ出すことが出来る知こそが集合知だと僕は思っている。
権威と言うのは、情報を恣意的に選別することである。その選別においては、往々にして正しさは二の次にされ、立場が優先される。いや、正しいことは保証されているかも知れない。その正しさが、ある一方の立場に立ったゆえの正しさであるならば。あるいは、権威は、情報の価値に差をつけるということかもしれない。
問題は、立場そのものが時代や情勢にあっているかどうかに関わらず、既得権益として機能していることがあることであり、それが一番力を発揮していたのが発信能力の差である。インターネット時代の到来により、発信能力の差が少なくなってきたことに対して危機感を覚えることは自然なことである。
もう一度言っておく。集合知において、ノイズはノイズ足りえない。googleAmazonのレビューばっかり引っかかることがノイズであるのかどうか。特定のものに対して誹謗中傷ばかりが出てくることがノイズであるかどうか。違う。それはフィルタリングが適切で無いだけだ。都合の悪いことが隠し切れない情報の集積場がウェブである。
集合知は悲しいかな、民衆を啓蒙するものではない。蒙を啓くために必要なのは集合知ではない。
初めに述べたとおり、無秩序な情報伝達が必ずしも社会の幸福には繋がらないと言うことはあるだろう。長い目で見なければならない政策が瑣末な失敗により潰されることのツケが30年後に周ってくることなど一般市民の関与すべきことではないのかも知れない。しかし、それを解消する手段の一つが愚民化であるならば、識字率を限りなく上げてしまった日本にとっては全くの誤った方法であり、そのことはウェブ時代の到来によりはっきりとした事実として見えてきた。そして、愚民化の副作用としてのモラルの低下があるのだとしたら、そのツケはこれからどんどん支払わなければならないだろう。
本来すべきだったのは、情報を読み解く力の教育と公的な情報の恣意的でない公開、そして子孫の繁栄のために多少なりとも自らを犠牲にする日本人的心の醸成だったのかもしれない。そのとき、集合知は自浄的フィルターとして現実に力をもたらしたかもしれない。その代わり、既得権益的なものは限りなく制限されただろうし、勝って贅沢をする人間は減っただろう。
やんぬるかな、日本人はウェブを世界を変えるツールではなく、おもちゃとして振り回してしまった。そのことについて危機感を覚えるのであれば、「権威が正しいのだからその言うことを聞くべき」的発想こそ、真っ先に変えていく必要がある。「愚者は賢者の言うことを聞くべき」というのは真実ではあるけれども、かつての愚者に賢者の地位を奪われる未来を恐れてはならない。