嫌いな人、嫌いな議論

僕はあまり人のことを嫌いにならないのだけれども、それは多分必要以上に人と踏み込んだ関係を持たないようにしようとしているからだろう。別に議論をしていても、そこであまり意義を感じなくなったら「あーそうですねごもっとも」で済ませてしまうことも多い。譲れるところであれば。
だけど、こういう議論をする人は嫌いだ。それは、他人の言葉を勝手に解釈して、その解釈が正であることを言葉を発した本人が否定しているにもかかわらず、その発言を拾い集めてきて、論理的にはこうでしかありえない、自分が正しいと押し付けるような議論。言葉を発した本人にとってはその意図だけが重要であって、こう解釈できますよね、ってのは正しいのかも知れないけれど、それを言ったら世の中言葉の行き違いなんて絶対起きないように出来ているわけではなし、過去を振り返ることは大事だけれども、その刹那刹那で常に思考が一貫していることを求められたら何もしゃべらないのが正しい人間の生き方ってことになりかねない。
まあ言葉を発した以上はどう解釈されても仕方がないのだけれども、解釈をするのはあくまで受け取った方で、受け取った方の人が誤解していたとしても、誤解を解消させる必要がある相手でない限り、どうでもいいことは多いし、そのどうでもいい人がこうですよねああですよね私が正しいですよねなんて言ってきたらその時点で議論の体をなさない。そういう指摘もちろんありがたいことであることも多いから、指摘をされること自体はいやじゃないけれども。
まあでもそんな話で一番嫌なのは、それが意図と表現の問題ではなくて、議論のロジックの問題に転化されてしまう事で、また、そのことによって単なる揚げ足取り合戦になっていることに、議論を吹っかけた側が気付かないことが往々にしてあることだ。結局自分がロジカルに正しかったことを証明できたとして、一体何が残るのか。相手はそもそもロジカルであること自体を重要視していない場合だってあるのに。そんな正しさを認めさせたとしても「インテリは嫌だね」って思われるだけだし、ロジカルであることが議論の前提なのであるようなものであれば、相手は違う世界の住人なんだから来なければ良いのに。ましてや、ロジカルでないことを見下しているようでは。
頭がいいと思っている人は、相手の頭のよさを自分の頭のよさの基準でしか測れないものなのだろうか。想像力に欠けていると指摘する自分の想像力はそもそもの思考のロジックが異なる人のことを想像できるのだろうか。