スルーとプライド

最近の一連のエントリのキーワードは、「議論に応答するか」のようになってきました。ずいぶんと、原因と言うか悪いのを議論を仕掛ける側の問題としてしまっている感じではありますが、それはなぜか。
Webでの住み分けは可能か - novtan別館で、「応答する必要はあるのか?」としているのは、もちろん、「いや、無い」が続くわけです。
ただ、必要性と言うのは、そう単純なものでもありません。誤解による罵倒とか、一方的な物言いについて、その不当な部分にだけ反論したかったりするじゃないですか。こういうのはごく一般的なプライドのレベルでもなかなか我慢しづらい。だからこれをスルーできないと言って議論を受ける側の問題にしてしまうことも僕としてはちょっと責任の転嫁を感じてしまうのです。「ほら、応答しやがった、本心を炙り出してやる」みたいな発想をする方はそんなに多くは無いと思いますが、スルーって言っても不当な言われっぱなしを我慢できるほどみんな大人じゃないよねというか、大人のプライドにかけて、我慢できなかったりするわけです。それなりに考えをもって生きてきて、ある一つの切り口でしかない考え方でそれをばっさりとやられて黙っている、と。黙っててもいいのです。いいのだけれど。
もっとも、上手く受け流せるような形で応答できるのであれば、それが一番良いのかも知れません。大事な線を死守しつつ、上手く折れてみせるというのも議論のテクニックですね。どうもスルーすると言うのは場合によっては非常にまずい対処になりえるようです。