実名晒し問題をイデオロギーの対立のタネにしてはならない

今回のO氏実名晒され問題は、本来実名匿名論としては一番粗雑な原理主義の問題は法的な領域に踏み込んでいて、論争する対象ではないと考えている。プライバシーを巡るここ「何十年かの」議論を踏まえ、また個人情報保護法の観点からいっても、到底許容しえない行為だと思う。
しかし、このことを巡って実名論者と匿名論者が議論を戦わせるのは意味のあることではない。正確にいうと、実名がやった、だから、とか、匿名は今までも、的な議論はさっぱり意味がない。最初に上げた観点から言うと、まず、してはならない行為があり、その上で行為の主体があるからだ。この際、実名がこの原理主義をもって、とか、匿名がその特性を生かして、とかいうこと自体がナンセンスである。理由があれば許容できる行為なのか。僕はそうは思わない。
とはいえ、それぞれの立場からいって、その立場を立脚せしめるだけの議論のネタがこの問題には詰まっている。そのことは、事件からは切り離して考えるべきだ。事件の文脈を導入すると、じゃあO氏のあれはいいのかとか、そういう話になりがち。
僕は匿名は必要だと考えているし、さりとて自分が匿名でないとできないことをやっているとも思っていない。ただ自己防衛手段としての匿名の脆弱性を知っているが故にこの事件は看過し得ない。けれども事件の本質を言えば、実名でも匿名でも卑怯は卑怯であり、その点において、例えば小倉先生と対立する要素は一切ない。
無論、ウェブでは皆実名で活動すべき、してないものは速やかに実名を明かすべし、という論は今回の事件に関係なく存在する。そのことと、実力行使をすることは、その個人の中でいくら繋がっていようが別のことである。
テロ行為を是認することは、言論そのものに力がないことを認めることでもある。しかし、それが必要なことはきっとあるだろう。それは人としての尊厳を守る最後の手段としてなされるべき*1だし、権力を笠に着た嫌がらせや復讐として為されるべきではない。敗北宣言としてみても妥当ではなく、言論人としての身を汚す行為だ。
そんな行為に便乗して、自身の大切な言説を主張するのはあまりよろしくない*2。特に事件に言及して排除的な見解を述べるのは意味がないと思う。

*1:僕はしかし、理解はしても是認はしないだろう

*2:これは自戒でもある