「AはダメなのになんでBは許されるの?どっちも同じじゃん」という論難の問題点

議論が煮詰まって敗色(議論に勝敗などないと思っているけど)が明らかになってくると、よく登場する論法ですが、これを発する人は「どちらも悪いのに一方は許容されている!おかしい」として、Aも許容されるべき、と繋ぎたがります。
しかし、どっちも悪いなら両者とも許容されるべきではない、というのが筋論。ここで当初の「一緒に許容される」ということは否定されます。残された道はともに滅ぶこと。
ところで、この論法に至る以前、何を議論してきたのでしょうか。Aが悪いかどうか、許容されるべきか否かを様々な角度、条件で検討した結果、(留保付きかどうかはあるとしても)許容に否定的な結論が出たわけです。
そこでいきなり他の対象を持ち出して理由としようとします。その対象はここでは許容されている理由が議論されていません。つまり条件の違いを全く無視しています。なので違うということを明らかにしなければなりません。これはずるい。面倒ですね。
しかし、この問いには欺瞞があります。はじめに「なんで」とあります。これは文字通りの問いかけではなく「理由がわからない!違いがわからない!ずるい!」という思考停止表現です。一般的に片方が社会的に許容され、片方が許容されることには理由がありますから、思考停止せず、理由を考えるのは問いを発した人の責任であり、それが出来ないのであればはじめの議論に参加する資格があったのかも危ぶまれるところです。
もっとも、この手の議論には明確な答えがないものも多いので妥当性の判断において異なる見解があるものも多々あります。そういったものを出来るだけ持ち込まないのも論者のセンスですし、その意味でもここで挙げた論法は極めて筋の悪いものであることが分かると思います。