エロは隠すべき/あるいは他の欲望について

人々が豊かになるにつれ、生への欲求は当たり前のものとして薄まり、生きる目的としてのある種の欲望への上が人を動かし始める。
この50年来、技術の進歩とその伝播はエロとともにあった。しかし、あまりに大っぴらになりすぎて、もはやハードウェアの進歩には寄与しない。青少年の飽くなき探求によるスキルアップの対象にもならない。
一方で、普通では飽き足らなくなった人々はアブノーマルに走る。上流階級にその気の者が多いのは通常の刺激では満足できなくなっているからだろう。その行き着くところが戦争であるのは近代戦が男性の性行動のメタファーであることからも明らかだ。
さて、青少年にアクセス制限を設けるのは何も見せるな、と言うことではない。秘め事として扱うに足る、価値のあるモノであることを明らかにすると言うことだ。100円ショップで売られているような感覚で手にできるモノなどに若者たちは価値を感じるだろうか。
コンテンツ事業者が用意すべきなのは乗り越えるべき壁であり、その向こう側の日常である。何もかも見せてしまうから過剰が必要となり要求もされる。伝説の時は消え去り、暗黒の時代がやってきたかもしれない。しかし、それをコンテンツそのものの価値の再発見と捉えなければ、その先は見えないだろう。