著作権法は文化を守らないだろうことはわかっていたけど

文化という言葉で色々なものが塗りつぶされてしまうけれども、著作権法の本分は商売なんだから、どちらが優先されるかというのは明らかだ。だから、ヒートウェイブが受けた仕打ちというのは、至極当然のことのようにも思える。

元より、これは金銭のための闘いではありませんでした。もう少しマトモな状況にしよう。それは「商売」には違いないけれど、「文化」である側面も忘れたくはない。僕らを含め、ミュージシャンがこの時代に音楽を創って、生きていくにはどのようにすればいいのか?多種多様な音楽が共存する「豊かな文化」を目指すには、どうすればいいのか?そもそも、何故、ミュージシャンは配信と云う新しいメディアで、自らの楽曲をハンドリングさえ出来ないのか?一体、「権利」とは誰のためにあるのか?エトセトラ、エトセトラ。

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当のアーティストですら、その権利の何たるかがわからない権利。誰のためにあるのかだって?それは商売をする人のためにあるのだよ。アーティストはその恩恵にあずかっているに過ぎないのだよ。それが、今の著作権のありようであり、そのコントロールを離れて「文化を守るために著作権が云々」といっていられる人たちは、既にして相当幸せな状況にあるのだ。しかし、著作権の強化は、同種の人たち、共に文化を作る人はずの人たちのかなりの部分を切り捨てるような所業であることには気づかない。今の自分の待遇が相対的に幸せであることに気付いていないから。

日本のアーティストがこれからもレコード会社に「食わされる」存在なのか、自分で自分の楽曲をコントロールして流通までマネージメントできるようになるか、最初の一撃がとりあえず跳ね返された、というところなのでしょうか。

ヒートウェイヴが敗北的な和解、送信可能化権はソニーが所有 - in between days

少なくともメジャーデビューするということは、食わされる対象として選ばれた、そして食わせてもらうことを選んだ、ということに結果としてなっていることは間違いない。著作権の換金可能な部分を財産権としてしまったことと、それを契約で左右させることができるようになっていることが、原因ではある。しかし、著作権の財産的な側面なんてもとよりそんなもので、印刷業者がコントロールするものに、投資とリターンの観念が入ってくることは仕方がないことだ。
配信ってのは、新しい概念ではない。物理的に固着したものを配布するかどうかの差にすぎなくて、音楽というフォーマットが何か変わったかというと何も変わっていない。変わったのはメディアだ。だから、配信する権利云々というのが元々譲り渡した権利に包括されていること自体は不自然な話ではない。そう、文化で商売をすることは、その魂を売ることにも等しい。
僕はそのことについては肯定的ではもちろんない。配信コストに8万掛かるから配信しない?そんなコストアーティストに払わせろよ。機会損失させてんじゃねーよと思う。一方で、商売とは綺麗事ではないことはわかっている。そして、商売がある種の文化を創ることも理解している。おめがねにかなわないものを配信しないというのも一つの商売であり、一つの文化だ。そう、アーティストが権利を握ることがすなわち文化的、というわけでもないのだ。
著作権と文化とアーティストの持つべき権利の利害関係は独立しつつも複雑に絡み合っている。アーティスト自身の権利を拡大することが文化の発展に繋がるか、というほど単純な話ではないだろう。しかし、この、やってきたウェブ時代において、伝達手段の多様性やコスト感覚が大幅に変わってきたことだけは確かだ。真に文化を担っているのは誰なのか。発信側なのか受け手側なのか。この過渡期が後世においてどう評価されるか難しいところだが、一人一人、思うところを持って議論を戦わせなければならないのだと思う。