優越感ゲームって、指摘したら負けじゃね?

もちろんこのエントリを書いた時点で僕も負けです…って参加してないけど。

本当は、どんなにブックマーカーたちが優越感に浸りながら「自己主張」しているつもりでも、「主導権」を握っているのはそのエントリを書いた人なのだ、という話です。

2008-03-13

こういうのは自覚があったり空気をひしひしと感じていても「目線に上下なんかない」と主張し続けなければならないのです!
絶対的な価値判断の元の見下し的優越感というのは、ある種の人々には許されていると思うんですよね。本物の評論家ってのはそんなもんでしょう。本物のクリエイターも同様。ただ、市場には排除されるかも知れないけど。
今非常に曖昧な言葉であるところの「本物の」を使いました。とりあえず、そこはそういうものだとしておいてください。
で、大部分のそれ以外の人たちにとってはコメントも自己主張も所詮相対的なものであって、そこに優越感ゲームが存在するのは単なる自尊心の問題に過ぎないんじゃないかと思うわけですよね。つまり、スルーが推奨される類の問題。
僕は気質的にはなかなか0から1を作ることが出来ないし、1を10にする方がどちらかというと得意な方です。じゃあ、どっちが優れているのか。どっちも必要だし、そこに価値の差があるとしたら絶対的な1の評価と、1と10の差異の評価にならざるを得ない。もう芸術とか信念の世界であるし、そういった議論をできる事は尊敬に値する。無論、その土俵に乗った評価されるべき「価値」の絶対性にも。
大げさですね。大抵の場合、そういった議論にそれほどの意味はなくて、まあ、例えば作家に対する編集者的なもので言うと、1を作った作家に名誉が寄せられるわけだけど、10にしたのは誰か、というのは自身わかっているじゃないですか。
人の書いたものにけちをつけるのは簡単なんですよね。傷が内容に磨き上げられた玉というのはウェブの素人論議の中では滅多に見当たらないし。傷をつついて玉を割ることもあるし、傷を磨き上げることもある。磨いたら偉いかというとそれもあくまで結果論だったりする。
主導権を握る、というのは少なくとも対ブクマにおいては当たり前のことで、偉い偉くないの問題ではなく、構造上の問題だよね。所詮100字1コメント×同調者なブクマカー対字数制限無し書き換え追記編集可能なエントリ主。それをエントリが偉いからだ、と勘違いしたときが優越感ゲームの始まりなんじゃないかなあ。あるいは、ブクマカーが「俺はこんなに客観的なんだぜ、だぜ!」みたいな認識を持ったときに。でも、優越感ゲームは相手が乗ってくれないとゲームにならないんですよね。
もし、エントリを書くほうが優位だとしたら、取捨選択の自由を与えられていることにあると思ったりします。制御性というか。いつもブクマには感謝を。コメントにも感謝を。みなさんのおかげで僕があるということは少なからずあります。