肩書きに依拠できない匿名の脆弱さ

ウェブでは内容を評価したいという願望はある意味では怖い話です。なにしろ内容ですべてが判断されてしまいます。肯定は人格が肯定されたように感じてしまい、否定は自分が無価値になったかのように思えるかもしれません。特に否定の場合はそれが実名なら現実の権威に寄りかかることも可能ですが匿名はそうではありません。「本当の俺はこうじゃないんだ」と内心叫びながら歯を食いしばることもあるでしょう。
でも、現実の立場が世間一般に「立派」と見なされるものでなければ、ウェブにおける否定に対抗しうるものになりえません。そういった意味では人格ごと消え去ることが可能な匿名は恨みつらみを現実に持ち込まないための安全弁足り得ます。
ただ、僕や他のかなりの人が採用しているだろう、気軽に現実を浸食させないための、つまり、オンとオフの記号にすぎない匿名では逃げることは難しい。ここでは現実の権威とも戦わなくてはならないし、正直実名のメンタルとあまり変わらない活動(誹謗中傷しないとかね)が求められます。
問題はどちらの匿名かが(2ちゃんみたいに明らかでない限り)区別しづらいことでしょうか。
内容を評価してくれと叫びながら一方で実名の人が三流大だとか学部がどうとかいってしまうのは権威の過剰な意識の裏返しですよね。匿名でありながら権威主義に服している。実名の人の評価軸において、確かに経歴は大事ですがそれは権威ではなく何を為したかについて。外国のえらい人が日本を褒めたというデマに踊らされたりするのも同じような心理から発したものでしょうか。
匿名を求める声が「形式的な権威」からの解放ではなく権威主義への憧れの裏返しにならないようにしたい。肩書きがないという事は強みにもなりますが弱みにもなります。ウェブは肩書きのない人間が鬱憤を晴らす場で終わるにはもったいない空間です。ましてや喧嘩をするところでは!(※議論はどんなに激しくても喧嘩ではありません!)
いや、喧嘩してもよいですけどね。
ただ、実名の人が自分の世界を守るのに必死になりながらウェブに参加してくるとなかなか難しい。立場というものを守ろうとすると否定的な見解は叩かなければならないし、立場上本音が言えなかったりするわけで。言うべき事が何かに縛られて十分に言えないと、周囲は納得感のある答えをはぐらかされているように感じ、結局権威そのものを攻撃するか、人格をバカにするしか話のもって起用がなくなります。それじゃあ議論自体無意味です。
実名の立場に対抗するための立場を持たない匿名は内容で決着をつけないと存在意義がなく、それがともすれば攻撃性として表出されがちです。攻撃性を抑止できるかどうかはその発露が相互性を必要とするものである以上、匿名の側だけの問題ではありません。
逆に言うと実名が攻撃性を発露する原因の一端は匿名にあるのです。そのあたりをコントロール出来るようになって初めてウェブ言論は既存のものと肩を並べることが出来るのかも。
「〜の自由」てのも現実で謳歌すればよく、ウェブでの議論あるいはビジョンは理性を基にした次の段階のものであって欲しい。肉と名前を持たない単なる現実の縮小版じゃつまらないよね。
もちろんウェブの果たした機能は世界を狭くしたという現実のコミュニケーションと密接に絡む部分もあるけど、そこは既にインフラでしかないと思うし。ここに新しい秩序をどう作っていくか、あるいは押しつけられた秩序で満足するのか、と言うこと何じゃないかと思います。