原因分析も大事だけど

ありとあらゆる場合を想定したセーフティーな仕掛けなんて、色々なものを犠牲にしないとできない。利便性とか。で、そういうのを犠牲にしないために「危ないところには近づいちゃいけません」とか、「知らない人についていっちゃいけません」というような形の行動制限を行うわけだ。これもセーフティー側に倒すための行動だけど、装置なわけじゃない。万が一にも間違いが起こってはならないような業務において、人力ではなくシステム側でそれを担保しようとすると費用が跳ね上がり、制約は増えていくわけだ。
現実的なコストと、実用に耐える運用を考えると、そのセーフティーな部分が人間系に依存する割合がそこそこ高くなるのは仕方がないと思う。

1学級の人数がもっと少なければ、教師の目が行き届いて事故が防げたかもしれない。
安全対策に尽力する議員に投票していれば、事故が防げたかもしれない。
「乗ると割れます」と天窓にでかでかと注意書きがされていれば、事故が防げたかもしれない。
年に1回でも、安全週間を設けて、校内の危険箇所をPTAや専門家などと共にチェックし、その都度対策するようにしていれば、事故が防げたかもしれない。
天窓の設計を、子供がいたずらをするという前提で行っていれば、事故が防げたかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/umikaji/20080620/1213974613

こういうのって全部アドホックな対応で、事件が起きたからこそ対応策として挙げることが可能になったものだ。まあ、この事故にに限らない普遍的な対応策っぽいのもあるけど。そして、あくまで「かもしれない」に留まるんだよね。
昔はこういうものの危険に対してはいろんな危ないことをする経験を積むことで回避能力を獲得してきたわけだけど、その過程の中で不幸にも事故にあう人もいっぱいいただろう。
経験しないと覚えづらいこともあるだろうけど、何が危険で何が安全だかわからなくなるくらいの安全策を張り巡らせるよりも、危険に対する感覚を養う方が未来に繋がりそう。でも事故を100%許容しない社会では難しいかも。まあそのうち人間という生物には肉体的危機回避能力は不要になるのかも知れないけれども。